歴史散歩(武蔵千葉氏の史跡を訪ねる 赤塚)
     
   
 
  武蔵千葉氏 板橋区立郷土資料館編
 
 

武蔵千葉氏の史跡を訪ねて赤塚城趾に向かったが、途中隣接している板橋区立郷土資料館に立ち寄った。そして板橋区立郷土資料館発行の「武蔵千葉氏」を購入することができた。この本を読むことで武蔵千葉氏について多くのことを知ることをできたのです。
武蔵千葉氏について調べれば調べるほど謎が深まるということを知りました。
まず系図について述べたいと思います。
初代千葉実胤2代千葉自胤までは問題ないのですが、3代守胤については盛胤とする系図もあるのです。
 3代・4代・5代について各系図では下記のように異なっています。
 千葉大系図  守胤―良胤―雅胤
 松蘿館本千葉系図  盛胤―良胤―惟胤
 続群書類従  盛胤―良胤―惟胤
 小田原編年録  守胤―惟胤―正胤

他に「系図簒要」の千葉系図では実胤の子が守胤、自胤の子が盛胤となっているのです。更に守胤の子が惟胤、盛胤の子が良胤となっている。
賢胤 ―  実胤―守胤―惟胤―胤利―胤宗―胤村
 自胤―盛胤―良胤
「系図簒要」の千葉系図を理解する為に、自胤が「これたね」と呼ばれていたとする説があることから、自胤と惟胤は同一人物と考えてみたい。
守胤と盛胤は漢字の表記の違いで、書状も残っている守胤が妥当と思える。
良胤はどの系図でも4代のことから、重複している盛胤・良胤を省き、守胤・胤利に統一した。
以上のことを勘案し、上記系図を是正したのが下記系図である。(系図簒要をあくまで自分なりに解釈したものである)

自胤―守胤―胤利―胤宗―胤村※
3代守胤・4代胤利・5代胤宗となる。
※胤宗が関宿の戦いで戦死した為、玉縄城主北条氏繁の三男善九郎氏常が婿養子として家督を継いだ。当初千葉胤村と称したが後に千葉直胤と改名している。

天正2年(1574年)、北条氏政は3万の大軍で簗田晴助籠もる関宿城に攻撃を開始した。(第三次関宿合戦)
戦いは簗田晴助が城を明け渡すことで、北条氏の勝利に終わった。
関八州古戦録では、5代胤宗が関宿の戦い(第三次関宿合戦)で北条軍に加わり城内に攻め入ろうとした時に鉄砲に撃たれ討ち死にしたことが記されている。
「異本小田原記」でも石浜城主千葉次郎が戦死したことを書かれており、武蔵千葉氏5代に相当する人物が関宿の戦いで戦死したことは間違いない。

関八州古戦録では4代5代を胤利・胤宗と表記されているが、4代胤利の父を惟胤とし、馬加康胤の異母弟と書かれているなど事実とかなり違っているのです。そのため、4代5代を胤利・胤宗と特定することは躊躇せざるを得ないのです。

板橋区郷土資料館の「武蔵千葉氏」編集者は、松月院文書の「千葉憲胤寄進状」など多くの資料を研究して3代・4代・5代について守胤―憲胤―雅胤としています。
下記系図では4代・5代を胤利・胤宗でなく憲胤・雅胤といたしました。
板橋区郷土資料館が武蔵千葉氏の研究では最大限のことをやった上での結論と思われるので、それを尊重して武蔵千葉氏系図として作成いたしました。

 
     
     
   赤塚城 板橋区赤塚5-34-27
 
   赤塚城は康正2年(1456年)武蔵千葉氏2代千葉自胤によって築かれた城。初代当主千葉実胤は石浜城を居城とし、寛正3年(1462年)実胤が隠遁し弟の自胤が当主になると石浜城に移るが、赤塚城はその後も武蔵千葉氏の重要な城として存在した。
千葉実胤が隠遁した時には、将軍足利義政が千葉実胤に対し戻るように命令を出すなど、幕府とのつながりが強かった記録が残っている。
赤塚城を含む赤塚郷は京都の鹿恩院(臨済宗)※の所領だったが、足利義政は千葉氏に対し押領の停止を命ずる記録が残っている。他にも足立区島根などに武蔵千葉氏の所領だった記録が残っている。
しかし天正8年(1590年)小田原の役で北条氏が豊臣秀吉によって亡ぼされると、武蔵千葉氏は名実ともに滅び赤塚城も廃城となった。

※鹿王院 康暦元年(1379年)に足利義満によって宝幢寺(現在の京都市嵯峨北堀町)が創建された。
当初興聖禅寺と称したように臨済宗の寺院で、その境内に開山堂が建てられた。開山堂は周囲に鹿が多く集まったことから鹿王院と称するようになった。その後、応仁の乱で宝幢寺が消失してしまい鹿王院だけが残ったので鹿王院を寺名にした。応仁の乱で宝幢寺が消失してしまったことが赤塚郷が武蔵千葉氏の所領となった大きな原因と考えられる。
 
   


赤塚城本丸跡の碑
 


 
 



本丸から堀の部分に下がる階段
 


 
赤塚城趾周辺を歩く

赤塚城趾は現在都立赤塚公園の城山地区として整備されている。赤塚城本丸跡の碑が建てられ、上記のような掲示板で武蔵千葉氏と赤塚城趾について丁寧な説明がされている。公園の隣に板橋区郷土資料館が建てられ、武蔵千葉氏と赤塚城の歴史について詳しく知ることができるのはありがたいことである。公園の外は住宅地として開発されているため、赤塚城の全体を見ることは不可能だが、公園の中を散策するだけで堀や土塁があった場所を感じることができる。
赤塚城跡周辺の地図では、都立赤塚公園を黄緑で塗っているので、首都高速5号池袋線の北側(高島平)と南側(四葉2丁目・大門・赤塚5丁目)に分散していることが分かる。この公園は昭和47年の高島平土地区画整理事業で東京都が用地を取得し、昭和49年に開園しました。
赤塚城趾の西北に氷川神社がありますが、武蔵千葉氏2代千葉自胤が長禄元年(1457年)に武蔵国一の宮氷川神社(埼玉県大宮市)より御分霊を勧請したものと伝わっている。
赤塚城趾の南東には松月院があります。松月院は曹洞宗の寺院で正式名称は萬吉山宝持寺松月院。
武蔵千葉氏2代千葉自胤が赤塚城主となり、その後1492年にこの地にあった宝持寺を自身の菩提寺と定め、土地を寄進し松月院と名前を改めさせたのが始まりとのことである。松月院には武蔵千葉氏のお墓や貴重な文書が残っており、武蔵千葉氏を知るうえで重要な寺院である。

 

氷川神社  板橋区赤塚4-22-1
 

 

 
松月院 板橋区赤塚8-4-9


 


 
 

 

 

松月院の墓地の片隅に伝千葉一族の墓として祀られている
 

武蔵千葉氏と中曽根城の謎(千葉次郎勝胤公墓について)

武蔵千葉氏については、石浜城と赤塚城以外に中曽根城のことにも触れなければならない。
中曽根城とは現在の足立区本木2-5-7にあった城で、城趾に中曽根神社が建てられている。
中曽根神社は昭和7年に興野の雷神社と合祀されるまで妙見社だったことからも、千葉氏に関わりのある神社であったと考えられる。
中曽根城は千葉勝胤の築城とされ、足立区伊興3-11-19にある長勝寺には千葉勝胤の墓まであるのです。
平成8年に中曽根神社近くの発掘調査によって中曽根城の堀跡が見つかり、足立区によって城の存在が確定されたのです。
しかし、千葉勝胤は千葉県酒々井町にある本佐倉城主で武蔵国に築城した記録は無く、この地を支配した武蔵千葉氏にも千葉勝胤という人物はいないため謎だらけなのです。

下の武蔵千葉氏(石浜城・赤塚城・中曽根城)の地図を見ていただければ、中曽根城は石浜城の北に位置し、武蔵千葉氏が現在の足立区にあった所領を確保するために支城として築城されたと考えられます。

更に千葉勝胤のことを調べる為に、「新編武蔵風土記」に記載されていることを検証したい。
「新編武蔵風土記」は江戸時代の文化・文政期(1804年から1829年)に編まれた武蔵国の地誌である。
千葉勝胤の墓は伊興村にある長勝寺の免田の傍らにあった。
墓碑に千葉次郎勝胤公墓と記され、墓碑の下に宮城三右衛門・市原四郎兵衛・宮城忠左衛門・常田次左衛門の名前が彫られていた。
当時の村民などに聞いてもよく分からないということであった。
宮城三右衛門等の子孫林蔵次左衛門の家には過去帳が残っており、千葉勝胤の命日は永禄7年(1564年)1月8日となっている。
当時の佐野新田(足立区佐野)の名主勘蔵は千葉勝胤の子新蔵胤信の子孫と称していた。
名主勘蔵の家伝によると、里見義弘と北条氏康が戦った第二次国府台合戦で千葉勝胤が1月8日に討ち死にしたとのことである。
その他編者が当時の資料に基づき意見を述べているが省略する。

第二次国府台合戦は1月7日に北条方の遠山綱景・富永直勝が国府台にいる里見勢を攻撃し、両名とも戦死。敗北した北条勢は撤退したと見せかけ、翌1月8日に再度国府台にいる里見勢を攻撃し勝利した戦いである。この戦いで下総千葉氏は事実上北条氏の配下となり、北条氏の勢力は下総国・上総国に及ぶのである。
第二次国府台合戦で千葉氏の親族に戦死者はいないが、遠山綱景の娘婿である舎人城主舎人源太左衛門経忠が戦死しており、何かこのことが影響してるのかもしれない。
下総千葉氏の当主で本佐倉城主だった千葉勝胤の命日は享禄5年(1532年)5月21日で、上記に書かれている千葉勝胤は別の人物であることは明白である。
これらのことから、千葉勝胤の墓で祀られている人物は、舎人城主舎人源太左衛門経忠もしくはその関係者という結論になりました。
 


武蔵千葉氏と中曽根城の謎(武蔵千葉氏についても考察)

「新編武蔵風土記」に記載されている千葉次郎勝胤という人物は、第二次国府台合戦で戦死した舎人城主舎人源太左衛門経忠もしくはその関係者を間違えて伝わったという結論を出した。しかし、これは第二次国府台合戦で戦死した人物に特定した考え方での結論であり、あくまで千葉氏にこだわるならば別の考え方もできる。
この場合、武蔵千葉氏の中で合戦で戦死した人物を、千葉次郎勝胤と誤って伝わったと考えるのが妥当であろう。
関八州古戦録では5代千葉次郎胤宗と表記された人物が第三次関宿合戦で戦死したことは上記で記載しており、第二次国府台合戦が1564年であることと第三次関宿合戦が1574年であり、時期場所が異なっているが戦死ということでは一致しているのである。

関八州古戦録に書かれている武蔵千葉氏の系図は事実と異なってるので、2代千葉自胤を(これたね)とも呼ばれていたという考えに基づき、惟胤と同一人物とし2代千葉自胤以降の系図を下記のように作成したことを既に述べた。
2代自胤―3代守胤―4代胤利―5代胤宗―6代胤村(北条氏繁の三男・4代千葉胤利の娘婿)

しかし、板橋区立郷土資料館「武蔵千葉氏」の編集者は、武蔵千葉氏の菩提寺松月院では2代千葉自胤を(よりたね)と呼ぶことや、千葉憲胤寄進状・小田原編年録などの古文書などを精査して、2代千葉自胤以降の系図を下記のように作成したことも既に述べた。
2代自胤―3代守胤―4代憲胤―5代雅胤―6代直胤(胤村がその後改名)

胤宗を勝胤と間違えるのは無理があるが、雅胤を勝胤と間違えるのはありえるのではないだろうか。
勝という字は、勝る(まさる)という読み方があるように、勝胤を(まさたね)と呼ぶことは可能なのである。
本佐倉城主千葉勝胤(かつたね)について述べると、父親は千葉孝胤(のりたね)、嫡子は千葉昌胤(まさたね)。
武蔵千葉氏の千葉憲胤(のりたね)・千葉雅胤(まさたね)と偶然の一致から、何らかのメッセージを込めて千葉勝胤が選ばれ、武蔵千葉氏の歴代が名乗った次郎をつけて、「千葉次郎勝胤公墓」としたと考えたい。
宮城三右衛門・市原四郎兵衛・宮城忠左衛門・常田次左衛門は武蔵千葉氏の遺臣で、武蔵千葉氏滅亡後に帰農しても誇りを持ち続けていたのではないだろうか。
又、佐野新田の名主勘蔵が千葉勝胤の子・新蔵胤信の子孫と称していたことについても次のようなことが考えられる。
応仁武鑑に武蔵千葉氏の家老として、木内宮内少輔胤信・円城寺因幡守宗胤・粟飯原右衛門志勝睦の名前が記されており、木内胤信と何らかの関係があったのではないか。
今後、足立区の調査がすすんで足立区の農家から先祖書・過去帳などから武蔵千葉氏につながる発見がされることを期待するものである。

◎武蔵千葉氏ゆかりの石浜城・赤塚城・中曽根城を訪問するとともに、石浜神社・氷川神社(赤塚)・中曽根神社を訪問し参拝したのだが不思議な感じがしている。
石浜神社では隅田川のスーパー堤防から神社の写真を撮った為、神社横から参拝し鳥居を通らずに帰った。氷川神社は鳥居周辺が工事中で鳥居を通らずに参拝した。中曽根神社も鳥居周辺が工事中で、境内社の横から入り参拝した。石浜神社で参拝するときに、スーパー堤防を白鬚橋近くまで戻って、鳥居をくぐって参拝すべきだったと後悔している。
 
中曽根神社 (中曽根城跡) 足立区本木2-5-7


中曽根神社入口
 
中曽根神社境内
   
 

中曽根神社 境内社
 
中曽根城石碑
   


 

長勝寺 (千葉勝胤公墓) 足立区伊興町3-11-19
 
 

長勝寺入口


長勝寺本堂
 
   
 

長勝寺にある整備された千葉勝胤公墓
 

千葉勝胤公墓
   


 

 
     
     
   
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