上総金田氏ゆかりの史跡を訪ねる歴史散歩
     

上総金田氏の歴史を調べるために一昨年から関東の上総金田氏とゆかりのある史跡を訪ねてきた。
何と言っても初代金田頼次の居城とした勝見城(千葉県睦沢町)が唯一の史跡で近くにある金田郷(千葉県長生村金田)と一緒に訪ねることを金田頼次の子孫としての義務感を持って訪れたのであった。
勝見城趾は睦沢町によって「やすらぎの森」となってキャンプなどができる自然公園として整備されている。このように城趾を歩いて巡ることができるのは恵まれていると思う。

勝見城を訪れた歴史散歩 金田郷と勝見城

勝見城の現代の城郭は室町時代に金田信吉・金田正信が城主だった頃に整備されたことは間違いない。上総金田氏の終焉ととも上総金田氏は勝見城と所領を失い、正信の弟正興は勝見城から三河国に移り松平清康の家臣となったのであった。

 

歓喜寺入口にある勝見城趾の立て札
 

山の中腹に睦沢町が建てた勝見城趾展望台がある

 
勝見城や金田郷を訪ねて調べても金田頼次に直接つながる史跡や伝承は見つからず、金田頼次の所領は金田保があった現在の木更津市金田地区で間違いないとの結論に達した。
兄上総広常とともに源義朝に仕え、房総の兵を義朝の拠点鎌倉に運ぶためには、小櫃川河口近くの金田保(保は律令制の行政単位)を所領とし多くの船を所有していたと考えるのが妥当である。
対岸の三浦氏の婿に金田頼次がなったのは、上総氏と三浦氏の連携強化を図る源義朝の意向によるものであった。
木更津市金田地区が現在アクアラインで結ばれ発展していることからも、木更津市金田地区は鎌倉時代から続く上総国の要衝であることを証明している。
   
木更津市金田地区の海岸から見た東京湾アクアライン
 
   
金田頼次は兄上総広常が謀反の疑いで源頼朝によって謀殺 され、千葉常胤の屋敷に幽閉され失意のうちに亡くなった。

所領の金田保は和田義盛の支配地域に含まれたため失われたが、頼次の嫡子金田康常は千葉常胤の支配地域にある長柄郡金田郷を新たな所領とし勝見城を築いて居城とした。以後、上総金田氏は千葉常胤の子孫である千葉宗家とともに歩むことになる。
(宝治合戦)
千葉常胤の孫白井胤時は、宝治合戦で三浦氏と縁戚関係にある上総秀胤のことが千葉氏滅亡になることを避けるため、自発的に秀胤を討ったことにした。これにより千葉氏に事件が及ばないようにし、秀胤の妻子をも救うことにも成功した。 
白井胤時が千葉一族の長老として指揮を執り、金田成常も義父白井胤時の指示に従って活躍したのであった。しかし執権北条時頼が更に難癖をつけてくるのを避けるために、すべての責任をとって白井胤時・金田成常は所領を返上し隠居した。
その功績により金田成常の子で、白井胤時の外孫にあたる胤泰が鏑木氏の家督を継承した。以後、鏑木氏は千葉宗家の重臣として小田原の役まで歩むことになる。
(蕪木氏)
鏑木氏出身の常泰は、上総国蕪木城主として蕪木氏を起こすことになる。
蕪木常泰の次男貞政は円城寺氏の養子となって円城寺貞政となる。円城寺貞政は千葉介貞胤の家臣として南北朝の争乱で活躍することになる。
千葉介氏胤が15歳で家督を継承すると軍代として円城寺貞政が支え、足利尊氏から高く評価されたことが千葉大系図に書かれている。
円城寺貞政の甥蕪木常頼が足利尊氏の軍に属したと金田系図に書かれているが、上記のような経緯によるものと考えられる。
円城寺貞政によって円城寺氏は千葉宗家一番の重臣となるが、貞政の直系は途中で絶えて別の系統が円城寺氏として続くことになる。
後に千葉氏の重臣で四天王と呼ばれた原氏・木内氏・鏑木氏・円城寺氏のうち、鏑木氏・円城寺氏が金田成常の子孫であったことは大変興味深い。金田成常の子孫と言うよりは白井胤時の子孫と呼ぶ方が正しいのだろう。
(金田姓の回復)
その後享徳の乱が起き関東は戦国時代になっていくのだが、蕪木常信の代に金田姓に復することになる。そして金田信吉・正信の代に勝見城主となるが、詳しいことは金田氏歴代記第六章第七章で述べている。永享の乱・享徳の乱と関東で起きた争乱と古河公方派として上総国の支配権を獲得した上総武田氏が金田姓に復したことに重大な影響を及ぼしたことが書かれている。
(上総金田氏の終焉)
更に古河公方家の政氏・高基の親子の争いが、勝利した高基と政氏を継承した義明の兄弟の争いとなる。足利義明を擁した真里谷氏・里見氏が、古河公方足利高基に属する千葉宗家の支援する原氏の小弓城・庁南武田氏の庁南城を攻略。
千葉宗家と庁南武田氏の同盟に重要な働きをしてきた金田正信は自害させられ弟の正興は三河国へ追放されたのでありました。勝利した足利義明は攻め落とした小弓城を小弓御所とし、小弓公方として君臨し南関東に大きな勢力圏を築いた。
ここに上総金田氏は終焉を迎えたのだが、外孫にあたる本佐倉城主千葉介胤富は上杉謙信や北条氏康を相手に千葉宗家を守り切ったのであった。そして千葉大系図に正興が三河国に移ったことを記したことで、上総金田氏と三河金田氏が一体であることを証明してくれたことをここに申し添えておく。
     
  
◎上総国勝見城主だった金田左衛門太夫信吉・同正信親子が生きた時代について調べていくと、古河公方・下総千葉氏・庁南武田氏のことをもっと知る必要性を感じました。そして古河公方の史跡・庁南武田氏の史跡・下総千葉氏の史跡・武蔵千葉氏の史跡を巡る歴史散歩をしてきました。 
古河公方足利成氏が築いた古河城は明治時代に渡良瀬川の治水工事で取り壊され、堤防に城趾の記念碑が建てられているのは衝撃的でした。庁南武田氏が100年に渡って城主だった庁南城が地元の人たちから忘れ去られたような存在だったのには、残念な気持ちにさせられました。
あらためて勝見城をやすらぎの森として保存してくれている睦沢町と維持管理に努力している地元の方々に感謝しないではいられませんでした。
古河公方の史跡を巡る歴史散歩  古河公方歴史散歩へ 茨城県古河市 の古河城趾・古河公方館跡など

 
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下総千葉氏の居城本佐倉城を訪ねた歴史散歩は充実したものでした。中世城郭として今日まで在りし日の姿をそのまま伝えることができる名城だったのです。本佐倉城や千葉宗家に対する酒々井町及び住民の方々の熱い思いを感じることが出来ました。

本佐倉城を築いた千葉介孝胤は正当な領主なのに、幕府から認められていないので偽りの領主(千葉介)のように語られています。享徳の乱では、古河公方に属した小山・結城・那須・岩松などの武将は幕府に敵対したので、すべて偽りの領主となってしまうのだろうか。
守護職のように幕府が補任する権利を有するものはだめだが、千葉介のように千葉氏の当主として古河公方足利成氏が認めているので、千葉孝胤を正式に千葉介と呼ぶべきである。

篠塚御陣のように孝胤退治のため古河公方足利政氏・高基親子が本佐倉城攻めに出陣したとされているが、本佐倉城規模の城郭を攻撃するためには、5000~10000の兵を動員する必要があり、北関東の諸将を動員せねば集まらない。動員した記録もないし、古河公方家の記録にも篠塚御陣のことはない。
鎌倉大草子に書かれている太田道灌が千葉介孝胤を追払い武蔵千葉氏が下総国・上総国を支配したという記述は事実に反している。千葉大系図でも千葉介孝胤が臼井城を包囲している太田道灌の軍を攻め臼井城を救ったと書かれている。

歴史家たちは何故か太田道灌を文武両道の名君とし、それと敵対した千葉介孝胤・長尾景春・扇谷定正に対し悪いイメージを持っているようだ。本佐倉城を訪ねたことで、なおさら千葉介孝胤の歴史的評価が良くなって欲しいと願わざるを得なかった。
 
下総千葉氏の 史跡を巡る歴史散歩  本佐倉城跡歴史散歩へ 千葉県印旛郡酒々井町の本佐倉城跡・勝胤寺など
     

上総金田氏が仕えた本佐倉城主である千葉宗家は下総千葉氏として、幕府が支持した武蔵千葉氏と対立関係にあったと今まで認識していた。しかし、武蔵千葉氏の石浜城・赤塚城があった東京都台東区・板橋区の住民にほとんど知られていないにもかかわらず、歴史家は武蔵千葉氏が太田道灌と一緒に下総千葉氏を破り一時的には武蔵千葉氏が下総国・上総国を支配したと過大に評価されている大名(?)なのが実態なのである。
今回武蔵千葉氏の史跡を巡る歴史散歩で、赤塚城趾のある赤塚公園に隣接している板橋区郷土資料館を訪れ、同資料館著「武蔵千葉氏」を購入し読むことができたことで、武蔵千葉氏を理解することができようになった。
「武蔵千葉氏」は豊富な写真や詳細な説明文で武蔵千葉氏に関わる歴史的資料を紹介している唯一の本なのであります。板橋区役所がこのような文化事業に力を注いでいるのには感動しました。以下おおまかに武蔵千葉氏を紹介したいと思います。


千葉実胤・自胤兄弟は馬加康胤・原胤房に対し東常縁の支援を受け優勢に戦ったが、それに危機意識を持った古河公方足利成氏が派遣した簗田持助の軍によって康正2年(1456年)1月二人のいる市川城は陥落した。二人は武蔵国石浜へ逃れたが、石浜は千葉宗家が従来より武蔵国に持っていた所領で将軍家か拝領したものではない。市川城を拠点にした時は下総国市川荘1370余町・武蔵国葛西1200町・石浜700町を所領としていたが(千葉宗家の所領を受け継ぐ)、市川荘を失い葛西は上杉氏の重臣大石氏に委ねられてしまったので、石浜しか残っていなかったのである。
幕府からの支援は千葉介として認められだけで、新たに所領を得たわけではなかったのであります。
格式は千葉介としてそれなりの出費はでるのに、石浜700町の収入で賄わなければならないのである。千葉自胤は新たに赤塚城を築城し石浜城から移った。但し赤塚郷は京都鹿王院の所領で千葉自胤の立場は管理人という立場で鹿王院からの管理手数料が唯一の収入になるわけである。
石浜城の千葉実胤は石浜700町の収入だけでは困窮し度々将軍足利義政に訴えた。
将軍から関東管領上杉氏に実胤を助けるように書状が送られたが実行はされなかった。困窮した千葉実胤は隠居し弟の千葉自胤が武蔵千葉氏当主となったが困窮は続くのであった。
応仁元年(1467年)応仁の乱が起こり、将軍足利義政は京都が戦乱となったことで関東どころではなくなった。
鹿王院は足利義満が建立した宝幢寺という寺の塔頭であったが、宝幢寺は応仁の乱に巻き込まれ廃絶してしまった。そのため鹿王院は弱体化したため、千葉自胤は赤塚郷を押領したのであった。文明10年(1478年)足利義政が鹿王院の所領の確認と押領の停止を命ずる文書を発行したが、押領が停止することはなかった。応仁の乱によって将軍の権威が失墜し旧来の秩序が崩していったのである。

文明8年(1476年)長尾景春の乱が勃発。翌年1月五十子の陣を長尾景春が急襲し上杉勢が敗走。武蔵国の国人たちが長尾景春に味方した。扇谷上杉家家宰太田道灌は長尾景春に味方した豊島氏など武蔵・相模の国人を撃破。勢力を拡大していった。
千葉自胤は太田道灌の有力武将として活躍。恩賞として所領を拡大することができたので、赤塚郷の押領とともに経済的地盤の確保をすることがようやくできた。
文明10年(1478年)下総国への勢力拡大を望んだ太田道灌は、武蔵千葉氏の復帰を口実に現在の松戸市・流山市・柏市方面に侵攻を開始した。千葉介孝胤は急遽現在の柏市光ケ丘付近の境根原で太田道灌の軍を迎え撃ったが、戦いに破れ本佐倉城へ敗走した。
勝った太田道灌の軍は本佐倉城近くの重要拠点臼井城の攻略を図った。臼井城の守りは堅く攻囲戦が長期戦となったため、太田道灌は援軍の要請を関東管領上杉顕定にするため陣を離れた。顕定は求めに応じなかったので形勢は悪化。
翌年1月、留守を守った道灌の弟大田資忠・千葉自胤は攻囲戦からの撤退を準備したところ、そこに千葉介孝胤の援軍が到着し両軍激しい戦いとなり大田資忠は討死。千葉自胤は残りの兵を現在の松戸市方面にある太田道灌の支配地域にまで撤退することに成功した。
このように臼井城攻防戦は太田道灌の敗北で弟大田資忠を戦死させたにも関わらず、「損害は多かったが臼井城攻防戦は太田道灌の勝利で、臼井城を落城させ下総国・上総国の大半を千葉自胤が支配した。」と太田道灌状に記され、それに基づく鎌倉大草子によって世間で広まってしまった。太田道灌は戦争には負けたがメディア戦略では勝利したのである。

千葉自胤が市川城から石浜城へ逃れてから23年も経過してしまった。千葉介孝胤は古河公方に千葉介と認証され下総国を支配することが定着している。千葉自胤も今更下総国で千葉介を主張しても馳せ参じる者は期待できないと思っていたに違いない。太田道灌だけが武蔵千葉氏に千葉氏一族が馳せ参じることを夢見ていたのではないか。
負け戦で軍を無事に撤退させることの難しさを考えると、千葉自胤が武将として優れた人物だったと推測できる。
その後、千葉自胤は兄実胤の子守胤に家督を譲り、武蔵千葉氏は扇谷上杉家の配下から小田原北条氏の配下へと続き、小田原の役で消滅する。

荒川区では日暮里駅に太田道灌の像が建てられ、練馬区では石神井公園で毎年滅びた豊島氏を偲ぶ照姫まつりが盛大に行われている。武蔵千葉氏は台東区・荒川区・足立区・板橋区に支配地域が及び、地域内には家臣の子孫が現在も多く住んでいるはずなのに何も無いの寂しいものである。
  
     
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