金田郷と勝見城 


 
 




 
   
 
   上総一ノ宮駅から勝見城まで歩く

 
   旗本金田氏家史研究会では、金田氏発祥の地と言われている千葉県長柄郡金田郷と勝見城を実際に歩くことで、初代金田頼次とその生きた時代を実感することにいたしました。
金田郷は現在千葉県長生郡長生村金田として地名に残っています。勝見城は現在千葉県長生郡睦沢町寺崎にあるやすらぎの森として、睦沢町がキャンプ場として整備されています。
出発点は外房線上総一ノ宮駅を選びました。上総一ノ宮駅は特急わかしおの停車駅でもあり、列車本数も多く九十九里観光の最寄り駅でもあります。
駅から歩いて8分程で駅名の由来である玉前神社に到着いたします。
玉前神社は千葉県長生郡一宮町一宮にあり、古くから上総国一之宮として格式を保ってきました。
上総広常が謀反の罪で謀殺された後、翌年に上総広常が玉前神社に奉納した鎧から「頼朝の武運を祈る願文」が発見され無実が証明された。
領地を没収され千葉常胤預かりとなっていた金田頼次は病死していたが、嫡子金田康常は赦免され領地を返され御家人として頼朝に仕えた。
玉前神社では上総広常の慰霊祭が行われており、上総氏一族の子孫として是非とも参詣したいと思っていました。
そして、金田郷を経由して勝見城に行くことができました。写真や文章の記録として残しましたので、見ていただければ幸いです。

上総一ノ宮駅から勝見城まで歩く【前編】  上総一ノ宮駅→玉前神社→金田郷

上総一ノ宮駅から勝見城まで歩く【後編】  勝見城(やすらぎの森・歓喜寺)



 
  勝見城地図

高藤山城地図
 
   千葉大系図では平常家が上総国長柄郡一宮柳澤城を居城としており、上総広常の代まで柳澤城であったとする説が有力である。
現在の千葉県長生郡一宮町一宮高塔にある高藤山城が柳澤城に該当すると考えられています。
高藤山城が玉前神社から南に直線で4㎞の場所に位置し、その西側岩井の地に蕪木常信が岩井城を築き金田姓に復したとされている。
勝見城は玉前神社から西に直線で4㎞の場所に位置してる。
これらのことは何かの意味があると思う。この上総金田氏研究に役立てるため掲載した。

 
   
 
  勝見城   
 
住所 千葉県 長生郡睦沢町寺崎
 
     
   

金田郷から見た勝見城(画面中央から右側の山)


勝見城の部分を拡大すると山の中腹に展望台があり勝見城の目印になっている。→
 
   

勝見城は千葉県 長生郡睦沢町寺崎にある。そして今日その城跡は睦沢町がキャンプなどを楽しんでもらうための緑地休養施設「やすらぎの森」として整備されている。
一般的には上総広常の弟金田頼次が築城したと伝えられている。千葉大系図において「金田頼次の居館が上総国長柄郡金田郷にあった」と記載されていたことによる。更に江戸時代に編集された寛政重修諸家譜において金田頼次は「上総国長柄郡金田郷勝見の城に住し」と記載された。
しかし、金田郷は当時上総広常の所領だったと考えられている一宮荘に含まれており、金田頼次が父平常澄から譲られた所領は金田保(現在の木更津市の小櫃川下流地域)ではないかとの説も有力なのである。
上総広常が謀殺された後、金田頼次は所領を没収され病没した。翌年上総広常の無実が証明された為、金田頼次の嫡子金田康常は本領を安堵され勝見城に住んだと千葉大系図には記載されている。実は父金田頼次の所領(金田保)の代わりに長柄郡金田郷が金田康常の所領となった可能性が高いと思われる。
金田康常は勝見城を築城し、頼朝・頼家・実朝三代の将軍に仕えた。
上総広常の所領の多くを千葉常胤の孫千葉常秀が継承し、その後、上総常秀とも呼ばれるようになる。
千葉常秀の居城大柳館と勝見城は1kmしか離れておらず、金田康常と千葉常秀とは親密な関係だったと思われる。
当時の鎌倉幕府で北条氏と並ぶ実力者三浦義村は、金田康常とは従兄弟にあたる。
三浦義村の娘と千葉常秀の嫡子千葉秀胤は婚姻関係を結んでいた。
金田康常の嫡子金田成常(千葉大系図では盛常)は、千葉氏の一族白井胤時の娘を妻としていた。
このように鎌倉幕府の有力な御家人三浦氏・千葉氏と強いつながりがあった金田康常の代では、明るい未来を信じていただろう。
しかし、そのことが次の世代に悲劇を生むことになる。

千葉常秀の子千葉秀胤は鎌倉幕府の評定衆となるなど幕府の有力者になった。しかし、宮騒動で失脚。
宝治元年(1247年)に起きた宝治合戦で三浦一族が滅ぼされると、執権北条時頼の命を受けた大須賀胤氏など千葉一族が大柳館を攻撃。千葉秀胤はその一族とともに自害した。金田康常の子金田成常は、命は助けられるが勝見城と所領を失うことになった。

その後の金田氏については、成常の子胤泰が叔父鏑木胤定の家督を継ぎ鏑木胤泰と称すようになる。鏑木氏は千葉宗家の重臣として小田原の役まで続く。
 
   

千葉常胤 千葉胤政 千葉成胤 白井胤時 女(金田成常妻)
                   
鏑木胤定 ←【金田成常の子胤泰が養子に】
千葉常秀 千葉秀胤 【宝治合戦で自害】

 
     
   
鏑木胤泰の子常泰が蕪木氏をおこす。兄鏑木家胤が下総国香取郡鏑木郷にある鏑木城(現在の千葉県旭市鏑木)にあって代々名前に胤の字を用いたが、蕪木常泰は上総国武射郡蕪木郷にある蕪木城(現在の山武市松尾町蕪木)にあって代々名前に常の字を用いた。
千葉大系図では蕪木常泰は当初鏑木胤朝と称した。子の常時も胤高と称しており、常の字を用いるようになったのは、将来の金田氏復活を決心した為との見方もある。蕪木常時の弟円城寺貞政は千葉大系図によれば、千葉四天王と呼ばれた原氏・鏑木氏・木内氏と並ぶ重臣円城寺氏の養子となり、第11代千葉介貞胤に仕え活躍した記録が残っている。
第14代千葉介満胤以降千葉宗家が上総国守護を失い、蕪木氏も影響を受けたと思われる。

享徳の乱(1455年~1483年)が勃発し、関東が古河公方と幕府に支持された関東管領の両陣営に分かれて争うことになった。
千葉宗家も古河公方を支持する下総千葉氏と関東管領を支持する武蔵千葉氏に分かれ争った。
康生2年(1456年)甲斐武田氏出身で古河公方の家臣武田信長が上総国に進出し、上総国を支配する上総武田氏が誕生する。
上総武田氏は下総国を支配する下総千葉氏出身の千葉宗家とも、古河公方を支持する協力関係があったと考えられる。
そのために、上総国の千葉宗家とつながりのある豪族たちは上総武田氏の勢力下に収まった。
蕪木常信が上総広常の居城だった高藤山城の近くにあったとされる岩井城に移り、金田姓を復活させ金田常信と称すことになるのもこの時期である。文明年中(1469年~1487年)のことであった。
上総武田氏は庁南城を居城とする庁南武田氏が上総国東側を統治し、真里谷城を居城とする真里谷武田氏が上総国西側を統治した。
金田常信の子孫である金田信吉の代になると、勝見城主に戻ることができた。
金田常信以降、武田氏の信の字を名前に用いることを許される。

 常信 ― 信定 ― 宗信 ― 信吉 ― 正信

官位もつき、庁南武田氏と極めて親密な関係になったのである。
更に、金田信吉の子金田正信は娘を第24代千葉介昌胤に嫁がせ、その子第25代千葉介利胤・第27代千葉介胤富の母になっている。
庁南城を居城とする庁南武田氏の当主武田宗信と金田正信との間には縁戚関係があったと考えられる。
庁南武田氏の縁者であったので千葉宗家に嫁ぐことができたと思われる。
このように金田正信の代に輝いていた上総金田氏も終焉が近づいていた。
古河公方家の高基・義明の兄弟争いが起こると、小弓公方として足利義明が自立。
この争いによって、金田氏は勝見城主の立場を失い、庁南武田氏の家臣が城主となるようになる。
安房里見氏の記録に庁南城を攻め落とした記録が残っており、安房里見氏との戦いで金田正信は討ち死又は自害したと考えられる。
以後、庁南武田氏は小弓公方足利義明方となるが勢いを失い、真里谷武田氏はその後分裂して争い滅びたので、安房里見氏が上総国の大半を支配することになる。
金田正信の弟金田正興は上総国から三河国に移り、三河の豪族松平氏に仕えることになる。
当時の松平氏当主は松平清康。その孫が徳川家康である。金田正興の子孫は江戸時代に旗本となった。
金田正信の代までを上総金田氏、金田正興以後三河金田氏と分けて称している。
三河金田氏については、旗本金田氏家史研究のサイトにてデジタル化された本を閲覧できる。