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鎌倉大草子 |
その他資料に基づく事実関係 |
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武田氏の被官となっていた逸見中司丞有直が、鎌倉公方足利持氏の寵臣二階堂三河守が縁者だったことを利用して持氏に接近し甲斐守護を要望していた。
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応永24年(1417年) |
上杉禅秀の乱で禅秀方だった甲斐守護武田信満は、討伐軍の攻撃により自害した。武田信満の子武田信重及び信満の弟信元は高野山に逃げる。
鎌倉公方足利持氏は逸見有直に甲斐国を治めさせた。
武田信重の弟武田右馬助信長逃亡先から甲斐国に戻り、加藤入道梵玄とともに
逸見中司丞有直との戦いが続いた。
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室町幕府は新しい甲斐守護に武田信満の弟武田信元を補任し、信元は甲斐国内に戻った。国人の蜂起により政情が不安定なため信濃守護小笠原政康に幕府派武田信元への合力を命じた。 |
応永28年(1421年) |
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甲斐守護武田信元が亡くなったため、室町幕府は新しい甲斐守護に武田信満の子武田信重を補任する方針を固める。
9月武田右馬助信長反逆の噂があったので、吉見伊予守を甲斐国に派遣し信長と対談し、反逆の意思なしとの報告があった。
(喜連川判鑑)
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応永32年(1425年) |
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8月武田右馬助信長反逆。上杉房実の軍を派兵退散させるし。
(喜連川判鑑)
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応永33年(1426年) |
武田右馬助信長が逸見中司丞有直との戦いに勝利し有直は自害する。
鎌倉公方足利持氏大いに怒り一色持家を大将に1000の兵を派兵するが信長に敗れてしまう。
ついに足利持氏自ら大軍を率いて甲斐国に攻め入り、武田信長は降参する。
足利持氏は武田信長を許し鎌倉に連れて行った。
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6月武田右馬助信長反逆。一色持家の軍を派兵。8月武州白旗一揆が加わり信長降参。一色持家信長を連れて鎌倉に戻る。
(喜連川判鑑) |
鎌倉大草子の問題の文章 |
鎌倉公方足利持氏は甲斐守護を逸見氏にと要望したが認められず、室町幕府は武田信元を甲斐守護に補任した。(鎌倉大草子の文章では応永33年以降に起きたように書かれている)
武田信元の子が早世したため、武田信長を後継者としようとしたが幕府から許可がでなかった。そこで武田信長の子武田伊豆千代丸を武田信元の後継者とした。
武田信元が没し武田伊豆千代丸が甲斐武田家当主になると守護代跡部氏が背き、輪宝一揆を味方にした跡部氏が白一揆を味方にした武田信長を破った。
武田信長は鎌倉に行かず京都に室町幕府を頼って行ったことが幕府と鎌倉府の対決の要因となった。
武田信長は将軍足利義教に奉公し遠江国蒲の荘御厨の1000貫の地を与えられた。
高野山に逃げていた武田信重が京都に出てきたので、将軍足利義教は武田信長に成敗するよう命令するが、兄思いの武田信長は武田信重を四国に隠し生活の援助をした。
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左記鎌倉大草子の文章について |
○甲斐守護を逸見氏との要望や武田信元の甲斐守護補任は応永24年の出来事。
○鎌倉公方足利持氏は降参した武田信長・伊豆千代丸親子を利用し、甲斐国の支配権を確保しようとした。
○甲斐守護武田信元が後継者を武田伊豆千代丸としたのは作り話。
○跡見氏に敗れた武田信長が京都に逃げ将軍に仕えたというのも作り話。遠江蒲の荘の話も事実でない。武田信重の話も作り話。
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永享5年(1433年) |
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3月武田右馬助信長鎌倉を逐電。(喜連川判鑑)
6月鎌倉公方足利持氏が幕府に武田信長の駿河逃亡を報告。駿河に逃亡した武田信長の誅伐を要請。
幕府は誅伐を退け、武田信長の駿河退去のみを求めた。
以後武田信長は甲斐国と駿河国の境周辺に潜伏していた考えられる。
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永享11年(1439年) |
前年起きた永享の乱 で敗れた鎌倉公方足利持氏自害 |
永享12年(1440年) |
結城合戦 |
更に続く鎌倉大草子の問題の文章(鎌倉大草子27) 芝蘭堂のホームページ→鎌倉大草子27
鎌倉大草子27 -甲斐武田家-
武田信長は代々鎌倉の近習であったが、この頃は京都におり、結城合戦の時に京の軍勢と一緒に下向した。
京勢と共に功名を上げて、その時の忠賞として曾此千津島を拝領した。
この場所は、故花峯入道(武田信春)が鎌倉に出仕する時に途中で宿をとった場所である。先祖の跡が香ばしくて、この場所に住んでしばらく安堵していたが、成氏が関東に御帰参の際、まっさきに馳せ参じ、代々関東に奉公してきたことを申し上げたところ、御感あって成氏の近習となった。
甲州は、京と鎌倉の抗争があったために未だに守護代も置いていない状態だったので、西郡は逸見が押領し、中郡と東郡は跡部上野父子が押領して、意のままにしていた。
しかし、このままでは公方のお咎めに預かるかもしれないのでよくなかろうと考え、その頃浪人して信長に扶助され、武蔵府中にいた道成入道(信重)を招いて主とした。
しかし、国の仕置は、今までどおり自分たちの思いのままにしていた。
その頃、結城合戦があって、道成入道(信重)は刑部大輔と号し、結城の城に攻め入り、一方の大将、結城七郎の首を討ち取って京都に進上したので、京都から甲州の守護に任ぜられた。
やがて、跡部駿河・同上野を討ち取って、自ら国を治めるようになった。果報めでたき人である。
跡部駿河・同上野は、本主の信長に背き、輪宝一揆の衆を誘って日一揆の衆を亡ぼし、信長を追い出して主の知行を押領し、牢人の道成(信重)を招き入れて意のままに振舞っていたが、天罰を受けてついに子孫まで亡び果てた。
刑部大輔入道は、宝徳二年(1450)十一月二十四日に逝去した。法名は功嶽道成と号す。俗名信重である。
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上記鎌倉大草子27の文章について |
文章の構成がひどい。
最初結城合戦後の武田信長で始まり、その次は甲斐国について永享の乱が起きる前の状態について語られてることが読んでいるうちに分かる。
京都にいるはずの武田信重が武蔵府中で浪人して、武田信長の援助で生活していると書かれていることには驚く。
武田信重の孫武田信昌の代に起きた守護代跡見氏を誅した事件を、武田信重の代に起きたように書かれているのも不思議に感じる。
更に内容について検証する。
○武田信長が京都に逃げ、兄武田信重を将軍から討伐されることから守り、更に生活を援助したというのは作り話と既に述べた。
鎌倉大草子27ではそれを踏襲したので、武田信重が武蔵国府中で浪人生活をしていることになったのだろう。
○武田信重が甲斐守護に任ぜられたのは結城合戦の功績ではない。永享の乱が起きた頃に武田信重が甲斐守護となる条件がそろったので幕府の命令に応じたもの。
但し上記事実と反する事柄以外に、注目すべきことも書かれている。
○結城合戦で武田信長が功名をあげたことは事実である。曽比・千津島の所領についても確認されており、武田氏とも代々縁のある土地と書かれているのも興味深い。
○足利成氏が鎌倉公方に就任した時に、馳せ参じ近習となったと書かれていることも事実であろう。
○武田信重が結城合戦で首謀者の結城持朝の首を討ち取ったと永享記にも書かれている。
○跡部氏が意のままに振舞ったかは不明だが、守護代として武田信昌の代まで続いたことは事実。
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