上総金田氏の歴史(歴代記)
 

   

 
 
第六章  上総武田氏と上総金田氏 その1
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第一章 第二章 第三章 第四章 第七章 第八章

 
 金田常信の代に金田姓に復した歴史的背景を知るために、第五章で享徳の乱がどのように千葉宗家や上総国に影響を及ぼしたかについて検証してきた。
しかし、金田姓に復するのに直接影響を及ぼした上総武田氏について検証することで、千葉大系図や金田系図にも記されなかった隠された事実を解明しなければ、今日上総金田氏の子孫たちが金田姓を名乗ることになった真実を知ることはできないのである。
上総武田氏は上総金田氏と親密な庁南武田氏と後に敵対関係になる真里谷武田氏に分かれて上総国を統治した。
第六章では上総武田氏を詳しく扱うことで上総金田氏との関連性を検証することにする。

 
蕪木常正 金田常信(蕪木常信から改姓) 金田信定 金田宗信  ― 金田信吉   金田正信
       
   └  金田正興
                     (三河金田氏祖) 
 
  (1)室町幕府と甲斐武田氏

甲斐武田氏と言えば、戦国時代の武田信玄があまりにも有名である。
鎌倉時代・室町時代と代々甲斐守護を任じられた甲斐源氏の名門であり、上総田氏の祖武田信長は甲斐守護武田信満の子として生まれた。
上総武田氏の祖武田信長の人生は波乱万丈で、その人生を知るためには予備知識が必要である。
歴史学者杉山一弥氏により、室町幕府の東国政策の骨子を次のように明らかにされた。
室町幕府は東国社会の統括を鎌倉府にまかせていた。
しかし、平時の東国社会に対して幕府が影響力を及ぼす一定の仕組みを築いていた。
  • 室町幕府は東国守護の最終的補任権を保持していた。
  • 鎌倉府の管轄国内に「京都扶持衆」という幕府と直接に主従関係を結ぶ武士を組織した。
  • 室町幕府が鎌倉公方の元服儀礼に関与した。鎌倉公方就任予定者は幕府が用意した特別の装束を着装し将軍偏諱を拝領することにより、足利将軍家の構成員であることを東国内外に明示することを目的とした。(鎌倉公方足利持氏がこのことを無視したことが永享の乱となった)
以上のことを理解したうえで、上杉禅定の乱後の甲斐武田氏について述べたい。


 (2)上杉禅秀の乱後の甲斐国守護職

応永24年(1417年)2に上杉禅秀の乱で禅秀方だった甲斐守護武田信満は、鎌倉公方足利持氏による討伐軍の攻撃で殺害された。
武田信満は娘を上杉禅秀に嫁がせた関係から禅秀に味方し、鎌倉公方足利持氏の軍勢に攻められ敗れ甲斐国木賊山にて自害したのであった。この木賊山は山梨県甲州市大和町木賊にある標高1380mの山で、この地にある棲雲寺の山号天目山の方が知られるようになった為に、後に天目山と呼ばれるようになる。この天目山こそ天正10年(1582年)3月織田信長に攻められた武田勝頼が自害し甲斐武田氏滅亡の地となった因縁の場所である。

武田信満が自害後、その嫡子武田信重と信満の弟である武田信元は京都に逃げた。武田信重の弟武田信長は甲斐に残ったと思われている。
上杉禅秀の乱では、鎌倉公方足利持氏を室町幕府が援助する姿勢をとった。足利持氏が将軍足利義持から将軍偏諱を拝領していたことも理由の一つであろう。しかし上杉禅秀の乱後、室町幕府は鎌倉公方を牽制する姿勢に変わる。
敗死した甲斐守護武田信満の弟武田信元を補任し応永24年中に京から帰国させ、応永25年(1418年)上杉禅秀が守護だった上総守護に「京都扶持衆」の宇都宮持綱を補任したのである。

鎌倉公方足利持氏にとってこの人事は不本意なことで、室町幕府と鎌倉公方の政治的懸案事項となることによって両守護とも国内的には弱体なものであった。甲斐守護武田信元は守護補任後4年弱で死亡、応永29年(1422年)上総守護宇都宮持綱は小栗満重の乱に加わることによって討伐を受けることになり、両者ともに守護職を失った。

室町幕府はその後鎌倉公方足利持氏との軋轢を避けるため、甲斐守護に関する足利持氏との合意を待ち続けた。
応永30年(1423年)になるとぬ室町幕府は鎌倉公方足利持氏に対し軍事的圧力をかける方針に転換し、 甲斐国内の武田氏一族を駆使し鎌倉府対策を進めていった。甲斐国内武田一族の中に武田信重の弟武田信長を指す武田右馬助の名前があり、武田信長はその後も甲斐国内で反鎌倉府の活動を続けるのであった。
同年、室町幕府は甲斐守護に武田信満の嫡子武田信重を補任した。しかし武田信重は「甲斐守護は受けるが、京から甲斐への帰国は拒否する」と主張した。拒否の理由は「鎌倉府に出仕した時に足利持氏によって暗殺されること」を危惧したもので、甲斐国は鎌倉府管轄の為、甲斐国守護は在鎌倉を義務づけられていることを理由にした。
鎌倉公方足利持氏が上杉禅秀の乱の加担者一族への容赦ない追求をしたことへの警戒心と甲斐国の諸勢力との武力抗争が発生する事を懸念した為、武田信重は甲斐国への帰国が自らの身を危険にさらすと感じたのである。
甲斐守護武田信元の死後、守護不在が続き鎌倉公方足利持氏による甲斐国内への直轄支配を志向していたことに、幕府が危機感を感じていた。
武田信重は甲斐守護も解任され、応永32年(1425年)以降は四国での隠居生活となってしまった。

正長元年(1428年)足利義教が将軍になると、翌年武田信重は四国から京都に戻された。将軍義教は武田信重を京都にて甲斐守護候補として保護しつづけた。
反鎌倉府の姿勢を明確にし抵抗していた甲斐国内の武田信長は、応永33年(1426年)に鎌倉府から大規模な征討を受け降伏した。その後武田信長は鎌倉に移り鎌倉府に出仕していたが、永享5年(1433年)に鎌倉を逐電し甲斐を経由して駿河に逃れた。逐電の理由として武田信長与党の日一揆が跡部氏与党の輪宝一揆に敗れたことも原因と言われている。武田信長はその後、永享の乱で鎌倉公方足利持氏が敗死するまで、甲斐・駿河周辺に潜伏していたと考えられている。
永享7年(1435年)熊野参詣にかこつけて甲斐国守護代跡部氏が上京し武田信重との対面を行った。跡見氏は輪宝一揆の頭目で、武田信重との対面により室町幕府との協調関係を築くことが出来た。
永享10年(1438年)、武田信重は永禄の乱がおきる頃に跡部氏の協力のもと甲斐に帰国し、甲斐国守護職に幕府から補任され名実ともに甲斐守護となった。戦国大名武田信玄は武田信重から数えて5代目の甲斐武田家の当主である。


 (3)鎌倉大草子と武田信長

永享の乱までの甲斐武田氏について述べてきたが、武田信長について歴史研究家によって異なる見解が存在する。これは武田信重に関しては幕府などの資料によって裏付けられているが、甲斐に残った武田信長については鎌倉大草子や喜連川判鑑に書かれているが、その内容が微妙に異なっているからである。
そこで鎌倉大草子と喜連川判鑑を照合し、上杉禅秀の乱から結城合戦までの時期について甲斐武田氏に起きたことを検証する。

   鎌倉大草子 その他資料に基づく事実関係
   武田氏の被官となっていた逸見中司丞有直が、鎌倉公方足利持氏の寵臣二階堂三河守が縁者だったことを利用して持氏に接近し甲斐守護を要望していた。
 
 応永24年(1417年)  上杉禅秀の乱で禅秀方だった甲斐守護武田信満は、討伐軍の攻撃により自害した。武田信満の子武田信重及び信満の弟信元は高野山に逃げる。
鎌倉公方足利持氏は逸見有直に甲斐国を治めさせた。
武田信重の弟武田右馬助信長逃亡先から甲斐国に戻り、加藤入道梵玄とともに
逸見中司丞有直との戦いが続いた。

 室町幕府は新しい甲斐守護に武田信満の弟武田信元を補任し、信元は甲斐国内に戻った。国人の蜂起により政情が不安定なため信濃守護小笠原政康に幕府派武田信元への合力を命じた。
 応永28年(1421年)    甲斐守護武田信元が亡くなったため、室町幕府は新しい甲斐守護に武田信満の子武田信重を補任する方針を固める。

9月武田右馬助信長反逆の噂があったので、吉見伊予守を甲斐国に派遣し信長と対談し、反逆の意思なしとの報告があった。
(喜連川判鑑)

 応永32年(1425年)    8月武田右馬助信長反逆。上杉房実の軍を派兵退散させるし。
(喜連川判鑑)

 応永33年(1426年)  武田右馬助信長が逸見中司丞有直との戦いに勝利し有直は自害する。
鎌倉公方足利持氏大いに怒り一色持家を大将に1000の兵を派兵するが信長に敗れてしまう。
ついに足利持氏自ら大軍を率いて甲斐国に攻め入り、武田信長は降参する。
足利持氏は武田信長を許し鎌倉に連れて行った。

  6月武田右馬助信長反逆。一色持家の軍を派兵。8月武州白旗一揆が加わり信長降参。一色持家信長を連れて鎌倉に戻る。
(喜連川判鑑)
 鎌倉大草子の問題の文章  鎌倉公方足利持氏は甲斐守護を逸見氏にと要望したが認められず、室町幕府は武田信元を甲斐守護に補任した。(鎌倉大草子の文章では応永33年以降に起きたように書かれている)
武田信元の子が早世したため、武田信長を後継者としようとしたが幕府から許可がでなかった。そこで武田信長の子武田伊豆千代丸を武田信元の後継者とした。
武田信元が没し武田伊豆千代丸が甲斐武田家当主になると守護代跡部氏が背き、輪宝一揆を味方にした跡部氏が白一揆を味方にした武田信長を破った。
武田信長は鎌倉に行かず京都に室町幕府を頼って行ったことが幕府と鎌倉府の対決の要因となった。
武田信長は将軍足利義教に奉公し遠江国蒲の荘御厨の1000貫の地を与えられた。
高野山に逃げていた武田信重が京都に出てきたので、将軍足利義教は武田信長に成敗するよう命令するが、兄思いの武田信長は武田信重を四国に隠し生活の援助をした。

 
左記鎌倉大草子の文章について
○甲斐守護を逸見氏との要望や武田信元の甲斐守護補任は応永24年の出来事。
○鎌倉公方足利持氏は降参した武田信長・伊豆千代丸親子を利用し、甲斐国の支配権を確保しようとした。
○甲斐守護武田信元が後継者を武田伊豆千代丸としたのは作り話。
○跡見氏に敗れた武田信長が京都に逃げ将軍に仕えたというのも作り話。遠江蒲の荘の話も事実でない。武田信重の話も作り話。

 永享5年(1433年)    3月武田右馬助信長鎌倉を逐電。(喜連川判鑑)

6月鎌倉公方足利持氏が幕府に武田信長の駿河逃亡を報告。駿河に逃亡した武田信長の誅伐を要請。
幕府は誅伐を退け、武田信長の駿河退去のみを求めた。
以後武田信長は甲斐国と駿河国の境周辺に潜伏していた考えられる。

 永享11年(1439年) 前年起きた永享の乱 で敗れた鎌倉公方足利持氏自害
 永享12年(1440年)  結城合戦
 更に続く鎌倉大草子の問題の文章(鎌倉大草子27) 芝蘭堂のホームページ→鎌倉大草子27

鎌倉大草子27   -甲斐武田家-

武田信長は代々鎌倉の近習であったが、この頃は京都におり、結城合戦の時に京の軍勢と一緒に下向した。
京勢と共に功名を上げて、その時の忠賞として曾此千津島を拝領した。
この場所は、故花峯入道
(武田信春)が鎌倉に出仕する時に途中で宿をとった場所である。先祖の跡が香ばしくて、この場所に住んでしばらく安堵していたが、成氏が関東に御帰参の際、まっさきに馳せ参じ、代々関東に奉公してきたことを申し上げたところ、御感あって成氏の近習となった。

甲州は、京と鎌倉の抗争があったために未だに守護代も置いていない状態だったので、西郡は逸見が押領し、中郡と東郡は跡部上野父子が押領して、意のままにしていた。
しかし、このままでは公方のお咎めに預かるかもしれないのでよくなかろうと考え、その頃浪人して信長に扶助され、武蔵府中にいた道成入道
(信重)を招いて主とした。
しかし、国の仕置は、今までどおり自分たちの思いのままにしていた。


その頃、結城合戦があって、道成入道(信重)は刑部大輔と号し、結城の城に攻め入り、一方の大将、結城七郎の首を討ち取って京都に進上したので、京都から甲州の守護に任ぜられた。
やがて、跡部駿河・同上野を討ち取って、自ら国を治めるようになった。果報めでたき人である。

跡部駿河・同上野は、本主の信長に背き、輪宝一揆の衆を誘って日一揆の衆を亡ぼし、信長を追い出して主の知行を押領し、牢人の道成(信重)を招き入れて意のままに振舞っていたが、天罰を受けてついに子孫まで亡び果てた。

刑部大輔入道は、宝徳二年(1450)十一月二十四日に逝去した。法名は功嶽道成と号す。俗名信重である。

 
上記鎌倉大草子27の文章について 
 文章の構成がひどい。
最初結城合戦後の武田信長で始まり、その次は甲斐国について永享の乱が起きる前の状態について語られてることが読んでいるうちに分かる。
京都にいるはずの武田信重が武蔵府中で浪人して、武田信長の援助で生活していると書かれていることには驚く。
武田信重の孫武田信昌の代に起きた守護代跡見氏を誅した事件を、武田信重の代に起きたように書かれているのも不思議に感じる。

更に内容について検証する。
○武田信長が京都に逃げ、兄武田信重を将軍から討伐されることから守り、更に生活を援助したというのは作り話と既に述べた。
鎌倉大草子27ではそれを踏襲したので、武田信重が武蔵国府中で浪人生活をしていることになったのだろう。
○武田信重が甲斐守護に任ぜられたのは結城合戦の功績ではない。永享の乱が起きた頃に武田信重が甲斐守護となる条件がそろったので幕府の命令に応じたもの。

但し上記事実と反する事柄以外に、注目すべきことも書かれている。
○結城合戦で武田信長が功名をあげたことは事実である。曽比・千津島の所領についても確認されており、武田氏とも代々縁のある土地と書かれているのも興味深い。
○足利成氏が鎌倉公方に就任した時に、馳せ参じ近習となったと書かれていることも事実であろう。
○武田信重が結城合戦で首謀者の結城持朝の首を討ち取ったと永享記にも書かれている。
○跡部氏が意のままに振舞ったかは不明だが、守護代として武田信昌の代まで続いたことは事実。


     


武田信長は永享12年(1440年)結城合戦勃発にともない、兄の甲斐守護武田信重とともに幕府軍として合戦に参加した。
武田信長は結城合戦での恩賞として幕府から相模守護に任ぜられたとする説がある。
鎌倉大草子27に書かれている結城合戦での功名により相模国曾比郷・千津島村を拝領したと書かれていることが、拡大解釈されたのではないか。
嘉吉2年(1442年)上杉清方から武田信長宛ての書状として「相模国三浦郡における京都醍醐寺地蔵院領の成敗」を命じたものがあるが、相模守護でなくともそれなりの職責を担うことができたと考えられる。
永享の乱後、関東管領上杉憲実が隠遁し山内上杉家の家督を上杉清方が継承し、上杉清方が上杉憲実の代理として関東管領の政務を行った。 嘉吉3年(1443年)には上杉清方自身が相模守護となっていることから、「この時期に武田信長を相模守護にするのだろうか?」と疑問に感じる。

次に相模国曾比郷・千津島村について検証したい。現在小田原市曽比・南足柄市千津島として地名が残っているので場所は特定できる。
後の古河公方足利成氏から武田信長宛の所領安堵状に「相模国曾比郷・千津島村、下野国瓦田郷、上総国造細郷等の知行」として記載されていることから、武田信長が所領としていたことは確認できる。
足柄峠では甲斐武田氏の祖である新羅三郎源義光の伝承が残っており、毎年9月に神奈川県南足柄市・静岡県小山町が協同で「足柄峠笛まつり」を開催していることからも、南足柄市に古くから甲斐武田氏の勢力が及んでいたと考えられる。
鎌倉大草子27にも「この場所は、故花峯入道(武田信春)が鎌倉に出仕する時に途中で宿をとった場所である。」と記されており、相模国曾比郷・千津島村が甲斐武田氏とゆかりのある場所であると推測できる。



現在の小田原市曽比は小田急線栢山駅に近いため、隣接している栢山の地名の方が一般的で、曽比は室町時代からの由緒ある地名なのに印象は薄い。
南足柄市千津島は市の中心駅伊豆箱根鉄道大雄山駅からバス便となり、千津島公民館はあるものの福沢の地名の方が一般的で、ここも室町時代からの由緒ある地名なのに印象は薄い。明治時代に福沢諭吉が千津島の天福寺住職を数多く訪ねたのが縁で地元の人々と交流があったことから明治22年に合併により発足した村の名前を福沢村としたことによるもの。福沢村は昭和30年の合併で現在の南足柄市となり、自治会・小学校・幼稚園に福沢の名前が残っている。



電柱で曽比の地名を確認


電柱で千津島の地名を確認

小田原市曽比に曽比稲荷神社があるが、そこに書かれている縁起によれば源義家がこの地に草創した真福寺が変じて曽比稲荷神社となったとのこと。この地が源氏とゆかりの深い地である証拠である。源義家の弟新羅三郎源義光を祖とする甲斐武田氏が代々所領としてきたと考えられる。
 
 

曽比稲荷神社縁起
 

曽比稲荷神社 小田原市曽比407


 (4)享徳の乱と武田信長

享徳3年(1454年)12月、足利成氏が関東管領上杉憲忠を謀殺したことにより、享徳の乱が勃発。
翌享徳4年(1455年)には足利成氏は幕府が支持する上杉軍に武蔵分倍河原の戦いに勝利し、以後関東は古河公方を支持する勢力と幕府が支持する関東管領上杉氏を支持する勢力の争いが続く。
康正2年(1456年)正月、古河公方足利成氏の命を受けて武田信長は上総国へ進出する。


武田信長は庁南城と真里谷城を築き、上総国での有力大名となった。
武田信長が上総進出を成功した要因は、上総の国人たちの支持をえることができたことによる。上総国は永享の乱まで鎌倉公方足利持氏による直接支配を試みられていた。永享の乱後も足利持氏を支持した勢力が残っており、足利持氏の子古河公方が派遣した武田信長に協力したと考えられる。更に鎌倉時代から千葉氏が両総を勢力下におき、千葉氏・上総氏一族の者が多く存在したと考えられる。古河公方を支持する下総千葉氏からの指示により、多くの千葉氏・上総氏一族の者が武田信長に協力したと考えるのも妥当だろう。
武田氏の上総入部が、蕪木氏の金田姓復活及びその後勝見城主になることに影響したことを次章で述べたい。

 
 
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