上総金田氏の歴史(歴代記)
 

   

 
 
第七章  上総金田氏の終焉 その1
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第一章 第二章 第三章 第四章 第八章

 
  第六章では上総金田氏と上総武田氏の関係について述べてきた。第七章では上総金田氏の終焉につながる出来事を扱う。
その出来事とは、古河公方足利高基の弟足利義明を擁した真里谷氏・里見氏が、古河公方足利高基に属する千葉氏・庁南武田氏と争い勝利し小弓公方足利義明の誕生となる出来事である。
小弓公方足利義明については兄である古河公方足利高基と不仲になり奥州を放浪していたというのが通説だったが今日では誤りと指摘され、古河公方家の内紛で父足利政氏が兄足利高基に敗れ武蔵国岩付城に移ってくるまで父を支え、その後真里谷信勝の誘いに応じて両総方面で新たに小弓公方として自立したと考えられる。
里見氏についても南総里見八犬伝などの影響で歴史的事実が歪められ伝わっている可能性が高く、里見氏に関する小説などを読んでも参考にはなりにくい。しかし上総金田氏終焉に里見氏が関与したことは千葉大系図などの内容から類推することができるので、里見氏を調べることでによって上総金田氏がどのように終焉を迎えたのかを解明したい。

 
金田常信(蕪木常信から改姓) 金田信定 金田宗信  ― 金田信吉   金田正信
       
   └  金田正興
                 (三河金田氏祖) 
 
 (1)里見系図から関連する人物を抜粋

南房総市白浜町にある里見氏の菩提寺杖珠院所蔵の系図から江戸時代に編集された里見系図から,里見氏について調べていきたい。

  ◎里見義実 応永24年(1417年)-長享2年(1488年) 享年72歳

嘉吉元年(1441年)結城合戦で幕府軍と戦った父里見家基はう33歳で討ち死にした。長享の乱で鎌倉府が幕府軍によって陥落すると、持氏の遺児春王丸・安王丸とともに下野国日光山に潜伏し、その後結城氏朝の結城城に入ったと里見系図に書かれている。
結城合戦当時の里見義実の年齢は25歳と推定され、父とされる里見家基と年齢が合わない。家基の享年が間違っているか、家基は義実の兄だったことも考えられる。
永享10年(1438年)永享の乱で鎌倉府が陥落すると里見義実は母親をともなって常陸国に落ちのびて行った。常陸国にいる一族を頼ったのだが、上杉氏に遠慮して助けてくれなかった。
系図には義実が幼いのを不憫に思った時宗の僧が世話し、その後済家(臨済宗の寺)の長老が義実を養育し成長したと書かれている。これも義実の年齢が22歳なのでそのまま受け入れることはできない。実際は鎌倉府陥落で常陸国に行ったのではなく、もともと常陸国出身者なのかもしれない。
嘉吉元年(1441年)に相模国三浦半島に移り蟄居と書かれているが、家基が結城合戦で討ち死にしたことで常陸国に居づらくなったことが影響したと思える。

鎌倉府の再興が成り足利成氏が鎌倉公方に就任すると、里見義実は鎌倉府の仕事に就く。結城合戦で討ち死にした里見家基の功績を考慮されると期待したが、新たな所領がもらえず困窮生活が続いてしまった。里見義実は鎌倉府から離れ再び相模国三浦半島にて元の生活に戻る。
そして現在の横須賀市にある京急線堀ノ内駅近くの海岸から現在の南房総市白浜を目指して渡海することになる。武将が渡海する姿は勇壮なイメージがあるが、生活に困窮した里見義実とその一行が渡海した姿は侘しいものであったのに違いない。

渡海後、里見義実は長田入り江に居を構えたと記されているが、現在の館山市西長田字上之台に位置する長田城付近のことか。その後、白浜に居を移した。

  • 安房国は安西・丸・神余・東条の四氏が分立して治めてきた。
  • 神余氏が家臣の山下定兼の反乱で滅ぼされ、安西氏と丸氏が協力して山下定兼を討ち取る。
  • しかし、安西氏と丸氏が神余郡の分配をめぐり争いになってしまった。安西氏は東条氏の加勢を得て丸氏に勝利する。
  • 当時白浜に住んでいた里見義実は近隣に住んでいた太田美濃入道と争いになり太田美濃入道を攻め滅ぼす。
  • このことを知った安西氏は里見義実を警戒するようになる。里見義実は安西氏に滅ぼされた山下定兼・丸氏の残党を集め、安西氏討伐の軍を起こし降参させる。
  • 更に降参した安西氏を配下にして里見義実が東条氏討伐の軍を起こし打ち負かす。

このようにして里見義実は安房国の支配権を確立し、白浜に築城した白浜城を居城とした。



   ◎里見成義・里見義通

成義  長禄 3年 (1459年)― 永正元年(1504年) 享年46歳
義通  文明13年(1481年)― 永正15年(1518年) 享年38歳

里見成義の事項には没後のことが多く書かれており、本来なら里見義通の事項として記されるべきものが成義の事項に混入したと考えられる。
里見義実が長寿で72歳まで長生きしたのに対し、成義が16年・義道が14年と当主だった期間が比較的短く、しかもその間に小弓公方足利義明の出現という歴史的にも重要な出来事が発生したことが影響したのかもしれない。
そのため、成義と義通の事項を一体にして書くことでこの時期の里見氏の動向を検証したい。


①里見義実の代には上総国に攻め込んでも成果はなかった。成義の代になって上総国に攻め込み何カ所か奪い取ったと書かれている。その後里見氏が上総国に進出する礎を築いたことを述べたもの。

②上総国守護代武田豊三・真里谷三河守と上総国生実城主原友幸が長年合戦に及んだ。原友幸は下総国守護大名千葉氏の家臣なので千葉氏が加勢した。武田・真里谷は劣勢であった。

③真里谷三河守は、古河公方足利政氏の次男希世が父と不和で奥州を放浪していたのを知り、両総の侍大将として迎え新たに足利右兵衛佐義明と称した。この時に里見成義も足利義明に謁し副将になる。

明応7年(1498年)8月25日上総国庁南城を攻め落とし、里見氏の武勇を表す。文亀2年(1502年)4月5日千葉氏家臣である猛将木内を討ち取る。この時期には里見成義は原友幸ともしばしば合戦に及んだ。

⑤文亀3年(1503年)8月
里見氏が同じ足利義明に属している真里谷上総介入道如閑を(讒口が原因で)攻め落とす。更に原友幸が守る生実城の攻撃を里見軍が開始する。原友幸は激しく抵抗したが、優勢な里見軍になすすべも無く原友幸は自害し落城した。

⑥生実城が落城すると周辺の領主たちが里見成義に従い、上総国の多くの城が成義に降伏したという話が続く。

⑦里見義通の事項として下記のことが書かれている。
大多喜城・勝浦城・池ノ和田城・窪田城・東金城・佐貫城・椎津城を従い、里見義道は窪田城に移り、里見実堯(義道の弟)を真里谷城に置いた。

⑧小弓公方足利義明の命により里見義通が下総国小金城主高城越前守父子を討つ。義明・義通の威四方に及んだ。


里見系図の特徴は里見氏が上総国の支配者になることを意識して、系図に前倒しでそのことにつながるようにかかれていることである。
そのために年月には十分注視する必要がある。そこで上記事柄について⑧から先に検証する。

里見義通が下総国小金城主高城越前守父子を討つ書かれている。森伸之氏論文「東葛の戦国大名高城氏」 によれば高城越前守は高城胤広、高城下野守は高城胤正(胤広の嫡子)を指し、胤広は生実城の戦いで討死し胤正は蓄電した。この高城下野守胤正が高城胤吉の父という説があり小金城を天文6年(1537年)高城胤吉が築城したことを考えると、そのままでは⑧を事実としては受け入れられない。
⑧は生実城の戦いで高城越前守胤広が戦死した話と後の足利義明と小金城主高城胤吉の争いの話が混ざり合った結果と考えられる。
⑦に書かれている諸城を検証する。
  • 大多喜城 大永元年(1521年)真里谷信清が築城し天文13年(1544年)里見氏の武将正木氏が真里谷氏から奪い3代に正木氏が支配。
  • 勝浦城  詳細は不明だが真里谷氏によって築かれた城を天文13年(1544年)里見氏の武将正木氏が真里谷氏から奪い正木氏が支配。
  • 池ノ和田城 庁南武田氏が里見氏に敗れた大永年間以降は城主の多賀氏は里見氏の配下になった。
  • 窪田城 里見成義築城とする説と真里谷氏が支配する椎津城の支城として築かれたとする説に分かれる。椎津城とともに天文21年(1552年)里見義堯が真里谷信政を攻撃した時に里見氏が支配するようになった。
  • 東金城 大永元年(1521年)酒井定隆築城とされるが、永禄4年(1561年)里見氏の武将正木氏が奪うが、天正4年(1576年)小田原北条氏に攻められ落城し再び酒井氏が城主となる。
  • 佐貫城 真里谷氏によって築城されたが、弘治2年(1556年)里見義堯に攻められ落城。この城は小田原北条氏と里見氏の争奪の舞台となる。
  • 椎津城  真里谷氏が支配。永正16年(1519年)小弓公方足利義明の背力拡大に危機感を感じた古河公方足利高基が椎津城を攻撃。小弓公方い属した里見氏は古河公方足利高基の軍と戦った。その後真里谷氏の内訌を経て、天文21年(1552年)里見義堯が真里谷信政を攻め落城させた。
⑦に書かれている諸城は義道の代には従えていないが、その後里見義堯の代までに従えることができ上総国の大半を支配することになった。
但し「里見実堯(義通の弟)を真里谷城を拠点とした」と書かれていることは嘘である。
⑤真里谷如閑を(讒口が原因で)攻め落とすとはどういうことを指すのか?
上総武田氏系図其二によれば、真里谷如閑とは真里谷信保のことである。天文3年(1534年)真里谷信保は小弓公方足利義明の勘気をこうむり出家し如鑑と号したと書かれ、その年の7月に没したと書かれている。
里見系図と上総武田氏系図其二から次のようなことが起きたと推察される。
天文3年(1534年)真里谷信保は誰かの讒言により小弓公方足利義明の怒りに触れてしまった。真里谷信保は出家し如鑑と号したが小弓公方足利義明の怒りは収まらず死に追い込まれた。里見氏が直接殺害に及んだかは不明だが、足利義明の怒りが真里谷如鑑を死に追い込んだことは確かである。里見系図に書かれている文亀3年(1503年)8月と上総武田氏系図に書かれている天文3年(1534年)7月には31年の開きがある。
これは里見義堯の代に起きた出来事を無理に里見成義の代に起きた出来事としたことによるもの。
⑥に書かれている内容も同様である。(里見義道の代に起きた出来事も含まれてるかもしれない)
④は里見義道の代に起きた出来事を無理に里見成義の代に起きた出来事にしたことによるもの。
このように里見系図は里見氏が上総国の支配権を確保していく過程を脚色して作成しているが、内容を吟味すれば貴重な歴史的資料と言える。
①②③については(6)年表から上総金田氏の終焉を検証で検証したい。

里見家基  ―   里見義実 里見成義 里見義通 里見義豊 
           
    里見実堯  里見義堯  ―  里見義舜
                     (義弘に改名) 

 
 
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