上総金田氏の歴史(歴代記)
 

   

 
 
第五章  享徳の乱 その1
  ❶   
    

第一章 第二章 第三章 第四章 第六章 第七章 第八章

 
  千葉大系図には、文明年中(1469年~1487年)千葉氏が安西氏・里見氏と国境で戦いその武功により蕪木常信が金田姓に復することができたと記されている。金田系図にも同様のことが書かれてる。
寛政重修諸家譜には金田常信が岩井城に住み千葉氏の求めに応じて安西氏・里見氏と戦い武功があったとの記述になっている。金田系図にも岩井城に住んだことが書かれている。
いずれにしても、千葉大系図・寛政重修諸家譜・金田系図では金田常信が千葉氏の求めに応じて安西氏・里見氏と戦い武功があったことでは一致している。
金田常信の代に金田姓に復したことと安西氏・里見氏と戦うことになった経緯を知るためには、享徳の乱がどのように千葉宗家や上総国に影響をしたか、その結果金田常信の代に何が起きたかを調べねばならない。第五章では30年に及ぶ戦乱である享徳の乱を扱う。

 
蕪木常正 金田常信(蕪木常信から改姓) 金田信定 金田宗信  ― 金田信吉   金田正信
       
   └  金田正興
                     
 
 
(1)享徳の乱
  • 文安4年(1447年)に鎌倉府再興を幕府が承認し、足利持氏の遺児永寿王丸と上杉憲忠(山内上杉家)は鎌倉に入り上杉憲忠が関東管領に就任。
  • 文安6年(7月宝徳元年に改元・1449年)に永寿王丸が元服し第5代鎌倉公方足利成氏となる。
  • 宝徳2年(1450年)4月山内上杉家の家宰の長尾景仲及び景仲の婿で扇谷上杉家の家宰の太田資清が足利成氏を襲う事件(江の島合戦)が起きる。江の島に逃れた足利成氏は結城成朝・小山持政・宇都宮等綱・小田持家・千葉胤将などの加勢を得て、鎌倉由比ヶ浜付近で長尾・太田勢と合戦となりこれを打ち破り、長尾景仲・太田資清は相模国糟屋荘に逃走した。
  • 事件の本質は永享の乱・結城合戦を通じて所領を拡大した長尾氏・太田氏を中心とする上杉氏勢力と、永享の乱・結城合戦の前の状態に戻して欲しい思いで鎌倉公方足利成氏のもとに結集した結城成朝・小田持家・簗田持助などの豪族の対立にあった。鎌倉公方足利成氏は事件を起こした長尾氏・太田氏の処罰を実現し、成氏のもとに結集した豪族の所領の回復を図ろうとしたが、長尾氏・太田氏の赦免という幕府の調停を受け入れさせられた。
  • 享徳元年(1452年)足利成氏に対して厳しい態度の細川勝元が幕府の管領に就任すると、足利成氏に対して「様々な要請は関東管領上杉憲忠の副状をもって幕府に取り次ぐこと」を命じている。更に関東管領上杉憲忠に対して、江の島合戦後に起きた成氏方豪族による押領行為について排除命令を出した。幕府による関東管領を軸とする鎌倉府体制を維持する方針は、鎌倉公方足利成氏と関東管領上杉憲忠の対立を激化していった。
  • 幕府の管領細川勝元は応仁の乱で有名だが、享徳の乱でも重要な役割を果たしたと言える。
  • 享徳3年(1454年)1227日に、足利成氏は関東管領上杉憲忠を御所に呼び寄せて謀殺した。この憲忠謀殺をきっかけとして、以後約30年間に及ぶ享徳の乱が勃発した。応仁元年(1467年)に勃発した応仁の乱が起きると更に戦乱が日本全土へと波及していくのであった。
  • 享徳4年(1455年)1月に足利成氏は鎌倉を出発、現在の府中市周辺の高幡・分倍河原で南下してきた上杉の軍勢と大激戦を繰り広げた。この戦いで、上杉憲秋(犬懸上杉家)・上杉顕房(扇谷上杉家)は負傷して自害するなど、上杉方は多くの兵力を失い大打撃を受けた。敗走した長尾景仲が常陸国小栗城に立て籠もったが、足利成氏の攻撃により同年5月に落城した。長尾景仲は上野に逃げたのであった。
  • 同年1月5日関東管領上杉憲忠殺害事件の報が京都にもたらされると、室町幕府は足利成氏討伐を決定。憲忠の弟上杉房顕を関東管領に任命し、足利成氏討伐軍の総大将として北陸道経由で関東に下向させた。上杉憲忠は4月16日に上野国平井城に着陣した.
  • 幕府は信濃守護小笠原光康・越後守護上杉房定・駿河守護今川範忠周辺諸大名に対しても動員をかけた。同年6月駿河守護今川範忠が鎌倉を制圧した。今川軍の鎌倉占領は寛正元年(1460年)に撤退するまで続く。
  • 幕府軍による成氏包囲網が形成されつつあり、更に今川範忠によって鎌倉が占拠された為、足利成氏は鎌倉に戻ることを諦め古河を本拠とすることになる。以後、足利成氏は古河公方と呼ばれるようになる。 古河を本拠とした理由は①古河が御料所下河辺に位置し経済基盤が確立していたこと。していたこと。②古河が渡良瀬川・古利根川に防禦された天然の要害であること。③周辺に小山氏・結城氏など成氏方の有力大名が位置し、活動基盤があったことなど。
  • 長禄元年(1457年)10月に足利成氏は修復を終えた古河城に移り居城とした。
  • 足利成氏が本拠とした古河城については、古河公方の史跡を訪ねる歴史散歩 を参考にしてください。 
  • 古河公方と関東管領の対立は、上杉諸家の対立も発生し、対立と和睦を繰り返す複雑な経緯をたどる。30年に及ぶ大乱のため途中のことは省略する。
  • 文明10年(1478年)正月に足利成氏と上杉氏との和睦が成立。文明14年(1483年)※に古河公方と幕府の和睦が成立した。(都鄙合体)
  • これによって古河公方が引き続き関東を統治する一方で、伊豆国の支配権については堀越公方足利政知に譲ることになった。ここに享徳の乱は終了した。


※文明14年は西暦では1482年だが、和睦が成立した11月27日は翌年である1483年1月6日にあたる。

 (2)享徳の乱年表

 西暦  年号  関東の出来事 その他の事項 
1454  享徳3年  鎌倉公方足利成氏が関東管領上杉憲忠を殺し、享徳の乱勃発。    
1455  康生元年  相模島川原合戦。武蔵国府付近(高幡・分倍河原))合戦。いずれも上杉勢の敗北。
鎌倉公方足利成氏拠点を古河に移し、初代古河公方となった。

8月馬加康胤・原胤房が千葉介胤直・胤宣親子を攻め下総千田荘にて自害させる。
11月幕府東常縁を派遣し、馬加康胤を攻めさせる。
1456 康生2年  1月古河公方の派遣した簗田持助らの軍によって、千葉実胤・自胤兄弟(胤直の弟胤賢の子)が籠もる下総国市川城を落城させ、兄弟は武蔵国へ逃亡。時期は不明だがこの頃に武田信長の上総国入部が行われたと推定されている。
武蔵岡部原合戦。武蔵人見原合戦。11月上総国八幡郷にて馬加康胤討死。
 享徳→康正(改元)
 1457 長禄元年 10月古河公方足利成氏も修復が終わった古河城に移った。この頃に上杉氏陣営も武蔵国五十子陣を構築したと思われるが正確な時期は不明。(長禄3年の上野国羽継原・海老瀬口合戦では上杉勢は五十子陣から出陣
6月馬加康胤の子千葉介胤持死去。岩橋輔胤が家督を継ぐ。
12月新しい鎌倉公方になるため足利政知京都を出発。
 1458  長禄2年   8月に足利政知伊豆国に到着。その後鎌倉に入れず、そのまま堀越公方となる。

※当時斯波義敏と守護代甲斐常治が対立していた。幕府が調停に乗り出し斯波義敏の地位を保障し、関東に出陣を命令した。斯波義敏が命令に従わなかったため、7月関東では五十子陣に集結し9月から10月にかけて利根川を渡った上杉氏を主力とする幕府軍が古河公方の軍との戦いに敗れてしまった。敗因は斯波義敏が命令に応じなかったことが明白で、幕府は斯波義敏に再度出陣命令を出す。11月京都を出発した斯波義敏の軍は近江で停止した。これは越前で守護側と守護代側の争いが続いていたからである。翌年5月越前敦賀で甲斐常治の軍と交戦した斯波義敏の軍は敗走した。(長禄合戦)
これにより斯波氏の家督は松王丸が継承し、斯波義敏は周防国へ追放される。勝った甲斐常治も5月に京都で亡くなり甲斐氏はその後衰退し甲斐氏側の有力武将だった朝倉孝景が越前国で台頭し、応仁の乱では越前国守護職に補任される。まさに漁夫の利。
 康正→長禄(改元)
幕府が斯波義敏に関東出陣の命令を発するが応じず。※
奥州・信濃の軍勢も出陣要請に応じず。
 1459 長禄3年  武蔵太田莊合戦。上杉教房戦死。上野羽継原・海老瀬口合戦。いずれも上杉勢の敗北。  
 1460 寛正元年  1月鎌倉を占領していた今川範忠の軍駿河に帰国。堀越公方足利政知が鎌倉入りを願うが、将軍足利義政によって制止された。
 長禄→寛正(改元)
1461 寛正2年 斯波松王丸が廃嫡され、足利政知の執事渋川義鏡の子義廉が斯波氏の家督を継承。越前・尾張・遠江の守護に斯波義廉が就任したことにより、斯波氏の軍事力によって堀越公方府の戦力不足解消を図った。
7月堀越公方足利政知、上杉持朝(扇谷上杉家)の相模守護停止。10月足利政知の執事渋川義鏡が主導する公方府と上杉持朝他武蔵・相模の諸将の対立抗争が顕在化したため、それに苦慮した足利政知の執事上杉教朝(犬懸上杉家)が自害。
 
1462 寛正3年  3月上杉持朝が古河公方成氏方に転じたという雑説(謀反の噂)が生じ、それを信じた堀越公方足利政知と上杉持朝の深刻な対立が生じた。この事件で扇谷上杉家と縁戚関係のある三浦時高・千葉実胤が隠遁することになる。このことに驚いた将軍足利義政による慰留で、11月に「上杉持朝謀反の噂は事実無根」として双方は和解した。12月に幕府は上杉持朝に対する制裁措置を解除し、堀越公方配下の実力者渋川義鏡は失脚した。この結果、廃嫡された斯波義敏が復権することになり、応仁の乱で斯波氏の家督をめぐって斯波義廉と争うことになる。  
1463 寛正4年  山内上杉家の家宰長尾景仲死去。長尾景信が家督継承。関東管領上杉房顕病気を理由に辞職を申し出受理される。  
1464 寛正5年    
1465 寛正6年   足利政知の執事上杉政憲(犬懸上杉家)が錦旗を奉載して武蔵に向かう。古河公方足利成氏が武蔵太田莊に出陣し越後守護上杉房定は苦戦してることを京都に伝えた。幕府は駿河守護今川義忠・甲斐守護武田信昌に出陣を命じたが履行されなかった。  
1466 文正元年  上杉房顕(山内上杉家)病没。子がなかったので、越後守護上杉房定の子顕定が山内上杉家の家督を継承する。
武蔵南多賀谷・北根原合戦
失脚した渋川義鏡が幕府の意向に沿って武蔵国蕨城を軍事拠点として構築したことで武蔵一帯の戦闘はなくなった。
 寛正→文正(改元)
1467 応仁元年  上杉持朝(扇谷上杉家)死去。  文正→応仁(改元) 応仁の乱勃発
1468 応仁2年   古河公方足利成氏、西軍足利義視と都鄙和睦を行う。
上野綱取原・毛呂島合戦で上杉方が勝利。古河公方に味方してきた京兆岩松家が没落し、幕府方の岩松家純(礼部岩松家)が新田莊を支配することになる。
 
1469 文明元年    応仁→文明(改元)1487年まで続く
1470 文明2年    
1471  文明3年  幕府からの帰順命令を受けて小山持政が幕府に寝返る。
足利莊・佐貫莊・佐野莊の合戦で上杉方が勝利。古河公方足利成氏の劣勢が鮮明になる。
5月長尾景信の軍勢が古河城を包囲することになる。6月古河公方足利成氏は古河城を退去。下総国本佐倉城の千葉介孝胤のもとに逃れた。
◎鎌倉大草紙に「3月に古河公方足利成氏が箱根山を越えて伊豆国に侵入し上杉政真(扇谷上杉家)によって撃退された」と書かれているが、古河公方の研究家の著書では論じられてもいない。当時の古河公方足利成氏は軍事的に劣性で、しかも優勢な扇谷上杉家が守護となっている相模国を通って伊豆にまで進撃できるのか甚だ疑問である。
 
1472 文明4年  古河公方の留守の間古河城は守備隊によって守られ、古河公方足利成氏は古河城に帰還することができた。
5月に結城・那須などの諸将とともに出陣し、利根川北岸に布陣して上杉勢の五十子陣と対峙した。
 
1473 文明5年  6月長尾景信死去。11月古河公方足利成氏の五十子陣への大攻勢で上杉政真が戦死。扇谷上杉家は当主を失い、政真に子がなかったので、上杉持朝三男の上杉定正が家督を継承した。  
1474 文明6年  長尾景信の死後1年を経過し、山内上杉家家宰職は景信の弟長尾忠景に決定した。この決定に景信の嫡子長尾景春が反発し、五十子陣では雑説(謀反の噂)が生じ不穏な動きをするようになった。  
1475 文明7年  扇谷上杉家家宰職太田道灌は、上杉顕定と長尾景春の和解を図るために調停に動いた。  
1476 文明8年  長尾景春五十子陣を退去し鉢形城に移り謀反の姿勢を鮮明にする。  
1477  文明9年  正月長尾景春五十子陣を襲撃し崩壊させた。長尾景春の乱勃発。
上杉勢は上野国に退却した。長尾景春には武蔵国・相模国の諸家が味方した。
しかし、扇谷上杉家の家宰太田道灌が3月に相模国で反撃を開始した。4月13日江戸城を出発した太田道灌は江古田原合戦で豊島氏に勝利し、4月28日には豊島氏の石神井城を落城させた。
太田道灌は北武蔵に転戦し、5月14日上杉勢とともに用土原合戦で長尾景春を敗走させた。
危機的状況になった長尾景春は、古河公方足利成氏に支援を要請し、7月に古河公方軍が景春支援のため上野国に出陣した。
上野国各地で両陣営は各地で対峙したが決定的な合戦にはいたらなかった。
 応仁の乱終結
1478 文明10年  正月に古河公方と上杉氏の和睦が成立し、すぐに古河公方の軍が帰陣した。又上杉定正(扇谷上杉家)と太田道灌も24日に河越城に帰陣したその後、太田道灌によって武蔵国・相模国の景春方は7月までに制圧され、長尾景春も居城である鉢形城から秩父に逃走した。
12月太田道灌は景春方として残っていた千葉孝胤討伐の為出陣する。12月10日大田道灌は千葉孝胤を境根原合戦で破り、千葉孝胤は臼井城に撤退する。
 
1479 文明11年  正月太田道灌は臼井城に立て籠もっている千葉孝胤に対して攻撃を開始するが、臼井城の戦いは7月まで続くのであった。途中、太田道灌は上杉顕定に出陣と援軍を要請するが、実現することはなかった。7月15日太田道灌の軍が帰陣のため陣払いを始めると、城内から千葉孝胤の軍が出て合戦となった。この戦いで太田道灌の弟太田資忠が討死するなど犠牲も多く、何とか確保した臼井城に代官を置くことができても、その後千葉孝胤に奪い返されることになる。
9月以降長尾景春の秩父方面から活発に活動するようになる。
 
1480  文明12年 上杉顕定が長尾景春の日野城攻略に出陣、太田道灌も参陣すると6月24日に日野城が落城し長尾景春の乱終結。  
1481  文明13年  古河公方足利成氏は上杉氏との和睦時にされた幕府との和睦仲介約束が履行されないため、再度越後守護上杉房定に仲介を依頼した。
 
1482  文明14年  古河公方足利成氏と幕府の和睦が成立。(都鄙合体) 享徳の乱終結。  
 1483      


 (3)享徳の乱を前期・中期・後期に分けて説明

享徳の乱は30年に及ぶ大乱であった。今まで戦国時代の始まりを応仁の乱とされてきたが、今日享徳の乱とする意見が多数を占める。
これは享徳の乱が関東での争い、応仁の乱が京都を中心とする関西での争いと場所は異なっているが、いずれも足利義政を中心とする幕府の政治力欠如が招いた人災だからである。
鎌倉府と守護大名は室町幕府にとって地方を統治する為の大事な役割を果たしてきた。しかし幕府は鎌倉府や守護大名の内部紛争に介入し、更により深刻な事態になったのが享徳の乱と応仁の乱なのである。その結果、鎌倉府も守護大名も弱体化し、独自の軍事力と経済力で地方を統治する戦国大名の時代に移っていくのである。
享徳の乱と応仁の乱が表裏一体のものとする根拠として、享徳の乱を前期・中期・後期と3つの時期に区分して説明しようとしたところ、区分する年が応仁の乱勃発の年と終結の年が当てはまったことを強調したい。


①享徳の乱前期 享徳3年(1454年~応仁元年(1467年)

関東管領上杉憲忠暗殺が起きたことにより、鎌倉公方足利成氏と上杉氏の軍事的衝突が勃発。その後足利成氏は本拠を古河に移り古河公方と呼ばれるようになる。東関東に古河公方足利成氏が勢力圏を確保し、西関東では幕府の支持を受けた上杉氏が勢力圏を確保した。
上杉氏が現在の深谷市東五十子に五十子陣を築き拠点としたが、この時期は古河公方の軍が優勢に展開した。
幕府は、将軍足利義政は新たな鎌倉公方として兄である足利政知を関東に下向させたが、守護大名たちが出陣命令に応じなかったなどの理由で、上杉勢は古河公方に対して劣勢の状態が続いた。将軍足利義政は足利政知に鎌倉入りを許さず、伊豆国にて堀越公方と呼ばれるようになる。堀越公方の執事渋川義鏡が上杉勢の実力者上杉持朝と相模国の権益をめぐって新たに対立が起こる。
この時期は、上杉勢を支持する幕府の権威に陰が生じたことと、将軍足利義政の政治力欠如によって、古河公方足利成氏が有利な状態になることができた。


②享徳の乱中期 応仁元年(1467年)~文明9年(1477年)

応仁の乱が勃発し幕府による関東への影響力が弱くなると、古河公方に対して上杉勢の優勢が鮮明になる。将軍足利義政の政治力欠如が今まで上杉勢に悪影響していた証拠である。
上杉勢が優勢になったもう一つの理由は、世代交代が起きたことがあげられる。
寛正2年(1461年)山内上杉家家宰の長尾景仲が隠居し嫡子長尾景信が家督を継ぐ。(2年後に景仲没)
文正元年(1466年)山内上杉家当主である上杉房顕が没し、越後守護上杉房定の子顕定が家督を継ぐ。
応仁元年(1467年)扇谷上杉家当主である上杉持朝が没し、孫の上杉政真が家督を継ぐ。
このような世代交代によって、山内上杉家家宰である長尾景信の立場が強くなった。
更に長尾景信の子景春や扇谷上杉家家宰太田資清の子太田道灌など若い武将が台頭してきた。
応仁2年(1468年)の上野綱取原・毛呂島合戦で上杉方が勝利。上野国新田郡の岩松京兆家が没落し、その後古河公方方の有力武将小山持政などが幕府に寝返るなど、古河公方の劣勢は明らかになっていく。
文明3年(1470年長尾景信を総大将に足利莊・佐貫莊・佐野莊の古河公方勢力を撃破していった。同年5月末に長尾景信の軍は古河城を包囲した。
6月24日古河公方足利成氏は古河城を退去し、下総の千葉孝胤のもとに逃れた。



古河城趾(渡良瀬川の堤防に本丸跡の石碑がある)

古河城は明治の渡良瀬川堤防工事で完全に破壊され、現在は堤防の上にある古河城本丸跡の石碑があることで、この場所に城があったことを知ることができる。古河歴史博物館に古河城の模型があり、古河公方の城にふさわしい大規模な城だったことが分かる。詳細は古河公方の史跡を訪ねる歴史散歩



古河歴史博物館にある古河城の模型
文明4年(1472年)になっても上杉勢は古河城を陥落させることはできなかった。春になると結城氏広・那須資持などの協力で古河公方は古河城に帰還することができた。そして8000の大軍を率いて反撃に転じた。そして利根川北岸に布陣して五十子陣に対峙した。
五十子陣では岩松家純の居城である金山城を守っている横瀬氏などが古河公方に通じているとの噂が広まった。このように上杉勢の間に足並みの乱れが生じたのであった。
文明5年(1473年)長尾景信が6月に没した。古河公方の攻勢に有効な対応ができなかったのも、実力者である長尾景信が健康を損ねたことによる可能性が高い。11月24日古河公方の軍勢が五十子陣に大攻勢をかけ、扇谷上杉家当主上杉政真が24歳の若さで戦死した。
山内上杉家当主上杉顕定は、長尾景信の後継者として嫡子景春でなく弟の忠景を決定した。このことは長尾景春の乱につながっていくのである。
扇谷上杉家では上杉政真に子がなかったので叔父の上杉定正が家督を継承した。太田道灌は父太田道真より扇谷上杉家家宰職を継いでいたと思われるが、継承問題を解決してから家宰職として実力を発揮するようになる。


③享徳の乱後期 文明9年(1477年)~文明14年(1482年)

●長尾景春の乱勃発

文明9年(1477年)正月18日長尾景春が五十子陣を襲撃して崩壊させた。上杉勢は上野国に逃走した。
京都では応仁の乱が終結する年だが、関東では享徳の乱が新たな段階に入ったのである。
五十子陣では既に長尾景春謀反の噂が広がり、太田道灌が上杉顕定と長尾景春の調停に動くなどがなされていた。
更に前年には長尾景春が五十子陣を離れ鉢形城に移ったことで、謀反の姿勢が次第に鮮明になっても上杉勢が何の対策もしなかったのは驚くべきことである。

●南武蔵・相模での太田道灌快進撃

長尾景春には、上野国長野為業・下野国長尾房清・武蔵国大石憲仲・武蔵国豊島泰経・同泰明・毛呂三河守・相模国金子掃部助・矢野兵庫助・越後五郎四郎・大森成頼
などの諸家が味方し、更に古河公方足利成氏や千葉介孝胤も加わった。
このようにして、古河公方と上杉勢の戦いから長尾景春に味方する勢力と敵対する勢力に分かれて争うようになるのである。
長尾景春の乱の勝利に貢献し、関東での実力者となっていったのが太田道灌なのである。
太田道灌は永享4年(1432年)扇谷上杉家家宰太田資清の嫡子として生まれた。
名前を資長又は持資、文明3年~6年の間に出家して道灌と号するようになった。
太田道灌は長尾景春に味方した武蔵国・相模国の勢力への攻撃を開始した。
文明9年(1477年)3月14日に豊島泰経・泰明への攻略に向かった。しかし、多摩川の増水で相模から来る味方が到着せず実行できなかった。
3月18日溝呂木城を攻め、城主溝呂木正成は火を放って逃亡。
同日小磯城を攻めると城主越後五郎四郎は降参しました。
その後相模の軍勢を中心に金子掃部助が守る小沢城攻撃を開始した。
4月10日勝呂原(坂戸市)の合戦で道灌の弟太田資忠ら河越城守備隊が景春側の矢野兵庫助の軍を敗走させた。
4月13日豊島泰経・泰明の率いる軍と江古田原の合戦にて勝利した。豊島泰明はこの戦いで討死した。豊島泰経は石神井城に逃げ込んだ。
4月18日相模国小沢城が落城。
4月28日攻めていた石神井城から内応者がでたため、ついに石神井城は落城。地元には豊島泰経が愛馬にまたがって三宝寺池の水底深く沈んでいった伝説が残っている。
娘の照子姫も落城の時に池に身を投げたと伝わっており、三宝寺池のほとりに殿塚・姫塚がひっそりと立っている。
このようにして、武蔵国・相模国で景春方諸将を破った太田道灌であるが、扇谷上杉家の守護国である相模と山内上杉家の守護国である武蔵において支配地域を拡大することができ、扇谷上杉家の立場を強化することができたのである。


東京都北区の静勝寺にある太田道灌木造
   
●北武蔵・上野での長尾景春・古河公方連合軍の活動

文明9年(1477年)5月13日太田道灌は五十子陣方面に出陣。5月14日用土原合戦にて上杉勢と長尾景春の軍勢が激突し、長尾景春は味方の長野為業が討死するなどして敗走。危機的状態に陥った長尾景春は古河公方足利成氏に支援を要請した。
7月古河公方の軍が景春支援の為出陣し現在の高崎市にある滝にて上杉勢と対陣した。不利を感じた上杉勢は上野国白井城(渋川市)に撤収した。
9月27日上杉勢は白井城を出陣、片貝・荒巻・引田と陣を張り塩売原で古河公方・長尾景春の軍と対峙するも、11月14日に古河公方・長尾景春の軍は滝に帰陣。12月23日古河公方・長尾景春の軍は滝を出陣し広馬場に布陣した。上杉勢も広馬場に陣を移し対陣したが、大雪のため決戦とは至らなかった。

 ●上杉氏と古河公方の和睦

文明10年(1478年)正月上杉方は古河公方に和睦の和睦の使者を派遣した。翌日上杉方が古河公方と幕府との都鄙和睦の仲介をすることを条件に和睦が成立した。和睦が成立したことにより、古河公方の軍勢は撤退を開始した。正月24日扇谷上杉家の軍勢は河越城に引き揚げた。
但し、この段階では和睦では一致しても、和睦交渉は続いていたと考えられる。両軍の主力は帰陣したが古河公方足利成氏は武蔵国成田陣に留まり交渉が妥結した後の7月17日に古河城に帰陣している。
その結果、太田道灌は相模・武蔵の景春方の残党を制圧し、同年7月には長尾景春は秩父郡へ逃亡。山内上杉家当主上杉顕定が鉢形城に移り居城とした。

 ●享徳の乱の終結

長尾景春の乱は上杉方の勝利で大勢が決したと言えるが、その後に太田道灌による下総攻撃があるが、これについては(4)太田道灌と千葉孝胤で詳しく検証する。
文明11年9月に長尾景春が蜂起し、武蔵国西北部で活動が活発化した。
翌年になると上杉顕定が長尾景春の日野城攻撃に出陣。「上杉方が古河公方と幕府との都鄙和睦の仲介をする」約束が履行されないことを不満とする古河公方足利成氏が景春支援の動きをしたため、緊張状態が続いた。6月24日日野城が陥落し長尾景春の乱は終結した。
文明13年7月古河公方足利成氏は越後守護上杉房定に都鄙和睦の仲介を依頼。
文明14年11月幕府と古河公方の和睦である都鄙和睦が成立し、享徳の乱は終了した。

 
 
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