西暦 |
年号 |
関東の出来事 |
その他の事項 |
1454 |
享徳3年 |
鎌倉公方足利成氏が関東管領上杉憲忠を殺し、享徳の乱勃発。 |
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1455 |
康生元年 |
相模島川原合戦。武蔵国府付近(高幡・分倍河原))合戦。いずれも上杉勢の敗北。
鎌倉公方足利成氏拠点を古河に移し、初代古河公方となった。
8月馬加康胤・原胤房が千葉介胤直・胤宣親子を攻め下総千田荘にて自害させる。 |
11月幕府東常縁を派遣し、馬加康胤を攻めさせる。 |
1456 |
康生2年 |
1月古河公方の派遣した簗田持助らの軍によって、千葉実胤・自胤兄弟(胤直の弟胤賢の子)が籠もる下総国市川城を落城させ、兄弟は武蔵国へ逃亡。時期は不明だがこの頃に武田信長の上総国入部が行われたと推定されている。
武蔵岡部原合戦。武蔵人見原合戦。11月上総国八幡郷にて馬加康胤討死。 |
享徳→康正(改元) |
1457 |
長禄元年 |
10月古河公方足利成氏も修復が終わった古河城に移った。この頃に上杉氏陣営も武蔵国五十子陣を構築したと思われるが正確な時期は不明。(長禄3年の上野国羽継原・海老瀬口合戦では上杉勢は五十子陣から出陣)
6月馬加康胤の子千葉介胤持死去。岩橋輔胤が家督を継ぐ。 |
12月新しい鎌倉公方になるため足利政知京都を出発。 |
1458 |
長禄2年 |
8月に足利政知伊豆国に到着。その後鎌倉に入れず、そのまま堀越公方となる。
※当時斯波義敏と守護代甲斐常治が対立していた。幕府が調停に乗り出し斯波義敏の地位を保障し、関東に出陣を命令した。斯波義敏が命令に従わなかったため、7月関東では五十子陣に集結し9月から10月にかけて利根川を渡った上杉氏を主力とする幕府軍が古河公方の軍との戦いに敗れてしまった。敗因は斯波義敏が命令に応じなかったことが明白で、幕府は斯波義敏に再度出陣命令を出す。11月京都を出発した斯波義敏の軍は近江で停止した。これは越前で守護側と守護代側の争いが続いていたからである。翌年5月越前敦賀で甲斐常治の軍と交戦した斯波義敏の軍は敗走した。(長禄合戦)
これにより斯波氏の家督は松王丸が継承し、斯波義敏は周防国へ追放される。勝った甲斐常治も5月に京都で亡くなり甲斐氏はその後衰退し甲斐氏側の有力武将だった朝倉孝景が越前国で台頭し、応仁の乱では越前国守護職に補任される。まさに漁夫の利。 |
康正→長禄(改元)
幕府が斯波義敏に関東出陣の命令を発するが応じず。※
奥州・信濃の軍勢も出陣要請に応じず。 |
1459 |
長禄3年 |
武蔵太田莊合戦。上杉教房戦死。上野羽継原・海老瀬口合戦。いずれも上杉勢の敗北。 |
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1460 |
寛正元年 |
1月鎌倉を占領していた今川範忠の軍駿河に帰国。堀越公方足利政知が鎌倉入りを願うが、将軍足利義政によって制止された。
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長禄→寛正(改元) |
1461 |
寛正2年 |
斯波松王丸が廃嫡され、足利政知の執事渋川義鏡の子義廉が斯波氏の家督を継承。越前・尾張・遠江の守護に斯波義廉が就任したことにより、斯波氏の軍事力によって堀越公方府の戦力不足解消を図った。
7月堀越公方足利政知、上杉持朝(扇谷上杉家)の相模守護停止。10月足利政知の執事渋川義鏡が主導する公方府と上杉持朝他武蔵・相模の諸将の対立抗争が顕在化したため、それに苦慮した足利政知の執事上杉教朝(犬懸上杉家)が自害。 |
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1462 |
寛正3年 |
3月上杉持朝が古河公方成氏方に転じたという雑説(謀反の噂)が生じ、それを信じた堀越公方足利政知と上杉持朝の深刻な対立が生じた。この事件で扇谷上杉家と縁戚関係のある三浦時高・千葉実胤が隠遁することになる。このことに驚いた将軍足利義政による慰留で、11月に「上杉持朝謀反の噂は事実無根」として双方は和解した。12月に幕府は上杉持朝に対する制裁措置を解除し、堀越公方配下の実力者渋川義鏡は失脚した。この結果、廃嫡された斯波義敏が復権することになり、応仁の乱で斯波氏の家督をめぐって斯波義廉と争うことになる。 |
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1463 |
寛正4年 |
山内上杉家の家宰長尾景仲死去。長尾景信が家督継承。関東管領上杉房顕病気を理由に辞職を申し出受理される。 |
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1464 |
寛正5年 |
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1465 |
寛正6年 |
足利政知の執事上杉政憲(犬懸上杉家)が錦旗を奉載して武蔵に向かう。古河公方足利成氏が武蔵太田莊に出陣し、越後守護上杉房定は苦戦してることを京都に伝えた。幕府は駿河守護今川義忠・甲斐守護武田信昌に出陣を命じたが履行されなかった。 |
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1466 |
文正元年 |
上杉房顕(山内上杉家)病没。子がなかったので、越後守護上杉房定の子顕定が山内上杉家の家督を継承する。
武蔵南多賀谷・北根原合戦。失脚した渋川義鏡が幕府の意向に沿って武蔵国蕨城を軍事拠点として構築したことで武蔵一帯の戦闘はなくなった。 |
寛正→文正(改元) |
1467 |
応仁元年 |
上杉持朝(扇谷上杉家)死去。 |
文正→応仁(改元) 応仁の乱勃発 |
1468 |
応仁2年 |
古河公方足利成氏、西軍足利義視と都鄙和睦を行う。
上野綱取原・毛呂島合戦で上杉方が勝利。古河公方に味方してきた京兆岩松家が没落し、幕府方の岩松家純(礼部岩松家)が新田莊を支配することになる。 |
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1469 |
文明元年 |
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応仁→文明(改元)1487年まで続く |
1470 |
文明2年 |
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1471 |
文明3年 |
幕府からの帰順命令を受けて小山持政が幕府に寝返る。
足利莊・佐貫莊・佐野莊の合戦で上杉方が勝利。古河公方足利成氏の劣勢が鮮明になる。
5月長尾景信の軍勢が古河城を包囲することになる。6月古河公方足利成氏は古河城を退去。下総国本佐倉城の千葉介孝胤のもとに逃れた。
◎鎌倉大草紙に「3月に古河公方足利成氏が箱根山を越えて伊豆国に侵入し上杉政真(扇谷上杉家)によって撃退された」と書かれているが、古河公方の研究家の著書では論じられてもいない。当時の古河公方足利成氏は軍事的に劣性で、しかも優勢な扇谷上杉家が守護となっている相模国を通って伊豆にまで進撃できるのか甚だ疑問である。 |
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1472 |
文明4年 |
古河公方の留守の間古河城は守備隊によって守られ、古河公方足利成氏は古河城に帰還することができた。
5月に結城・那須などの諸将とともに出陣し、利根川北岸に布陣して上杉勢の五十子陣と対峙した。 |
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1473 |
文明5年 |
6月長尾景信死去。11月古河公方足利成氏の五十子陣への大攻勢で上杉政真が戦死。扇谷上杉家は当主を失い、政真に子がなかったので、上杉持朝三男の上杉定正が家督を継承した。 |
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1474 |
文明6年 |
長尾景信の死後1年を経過し、山内上杉家家宰職は景信の弟長尾忠景に決定した。この決定に景信の嫡子長尾景春が反発し、五十子陣では雑説(謀反の噂)が生じ不穏な動きをするようになった。 |
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1475 |
文明7年 |
扇谷上杉家家宰職太田道灌は、上杉顕定と長尾景春の和解を図るために調停に動いた。 |
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1476 |
文明8年 |
長尾景春五十子陣を退去し鉢形城に移り謀反の姿勢を鮮明にする。 |
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1477 |
文明9年 |
正月長尾景春五十子陣を襲撃し崩壊させた。長尾景春の乱勃発。
上杉勢は上野国に退却した。長尾景春には武蔵国・相模国の諸家が味方した。
しかし、扇谷上杉家の家宰太田道灌が3月に相模国で反撃を開始した。4月13日江戸城を出発した太田道灌は江古田原合戦で豊島氏に勝利し、4月28日には豊島氏の石神井城を落城させた。
太田道灌は北武蔵に転戦し、5月14日上杉勢とともに用土原合戦で長尾景春を敗走させた。
危機的状況になった長尾景春は、古河公方足利成氏に支援を要請し、7月に古河公方軍が景春支援のため上野国に出陣した。
上野国各地で両陣営は各地で対峙したが決定的な合戦にはいたらなかった。
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応仁の乱終結 |
1478 |
文明10年 |
正月に古河公方と上杉氏の和睦が成立し、すぐに古河公方の軍が帰陣した。又上杉定正(扇谷上杉家)と太田道灌も24日に河越城に帰陣したその後、太田道灌によって武蔵国・相模国の景春方は7月までに制圧され、長尾景春も居城である鉢形城から秩父に逃走した。
12月太田道灌は景春方として残っていた千葉孝胤討伐の為出陣する。12月10日大田道灌は千葉孝胤を境根原合戦で破り、千葉孝胤は臼井城に撤退する。 |
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1479 |
文明11年 |
正月太田道灌は臼井城に立て籠もっている千葉孝胤に対して攻撃を開始するが、臼井城の戦いは7月まで続くのであった。途中、太田道灌は上杉顕定に出陣と援軍を要請するが、実現することはなかった。7月15日太田道灌の軍が帰陣のため陣払いを始めると、城内から千葉孝胤の軍が出て合戦となった。この戦いで太田道灌の弟太田資忠が討死するなど犠牲も多く、何とか確保した臼井城に代官を置くことができても、その後千葉孝胤に奪い返されることになる。
9月以降長尾景春の秩父方面から活発に活動するようになる。 |
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1480 |
文明12年 |
上杉顕定が長尾景春の日野城攻略に出陣、太田道灌も参陣すると6月24日に日野城が落城し長尾景春の乱終結。 |
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1481 |
文明13年 |
古河公方足利成氏は上杉氏との和睦時にされた幕府との和睦仲介約束が履行されないため、再度越後守護上杉房定に仲介を依頼した。
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1482 |
文明14年 |
古河公方足利成氏と幕府の和睦が成立。(都鄙合体)
享徳の乱終結。 |
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1483 |
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