上総金田氏の歴史(歴代記)
 

   

 
 
第四章  関東の争乱 その1
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第一章 第二章 第三章 第五章 第六章 第七章 第八章

 
 室町幕府3代将軍足利義満の代に南北朝合一が実現した。明徳3年/元中9年(1392年)のことである。以後元号は北朝の明徳に統一される。しかし、1352年に足利尊氏が鎌倉公方の権限を拡大させたことにより、鎌倉公方が幕府から離れて自立する動きとなってしまった。このことが関東での争乱の原因になり千葉宗家も巻き込まれるのである。

蕪木常時・蕪木常頼について前章で述べたが、常成・常治・常久・常正については千葉大系図では名前以外の記載はない。寛政重修諸家譜では➀蕪木常成が小山義政の乱に千葉介満胤に従い戦功をあげたこと。②蕪木常久が永享の乱で千葉介胤直に従い鎌倉公方足利持氏攻めに参加したことを書かれている。
常成・常治・常久・常正の4代が蕪木氏の当主となっていたであろう時代は、千葉宗家は千葉介満胤・千葉介兼胤・千葉介胤直の3代の時期に当たる。千葉介兼胤が上杉禅秀の娘婿の為上杉禅秀の乱では幕府・鎌倉公方と敵対したり、永享の乱では鎌倉公方が幕府・関東管領によって滅ぼされることが起き、争乱の中で生き残るのは容易では無かったのである。そして、関東で続く争乱に千葉宗家に従い蕪木氏も多くの戦いに出陣したと思われるが、この争乱が関東の歴史でどのような意義を有していたか検証してみたい。

 
蕪木常時 蕪木常頼 蕪木常成 蕪木常治 蕪木常久 ―  蕪木常正   
     
 
 
(1)鎌倉公方と関東管領

貞和5年/正平4年(1349年)鎌倉にいた足利義詮が上京し、義詮の弟足利基氏が鎌倉に下向し初代鎌倉公方になった。
前章でその後、鎌倉公方の権限強化が行われたことを述べた。
これにより関東における鎌倉公方の力が巨大になり、鎌倉公方が幕府から離れて自立をめざす動きとなる。
鎌倉公方を補佐する関東執事として足利基氏に仕えた上杉憲顕は、足利直義派として観応の擾乱を戦い抜き、幕府軍に敗れ信濃国で蟄居した。
しかし延文3年/正平13年(1358年)足利尊氏が亡くなると、貞治2年/正平18年(1363年)足利基氏は上杉憲顕を呼び戻し関東管領に就任させた。
上杉憲顕の復権は関東に大きな影響を与えた。
1351年に足利尊氏配下の武将として薩埵山の戦いで足利直義軍を破るのに貢献した宇都宮氏綱・千葉氏胤にとって厳しい事態となった。
宇都宮氏綱は上野国・越後国の守護職を剥奪された。そして両国の守護職は上杉憲顕に返還された。
1364年に千葉氏胤が上総国守護職を失うのも、上杉憲顕による報復と考えて間違いない。上総国守護職は紆余曲折を経て、同年上杉憲顕の娘婿上杉朝房
に与えられた。1365年千葉氏胤が京都から戻る途中美濃国で病没するが、上総国守護職のことで幕府に訴えに行った帰りのことであったと考えられる。
鎌倉公方の権限強化の影響が宇都宮氏・千葉氏にとって災いとなってしまった。
関東管領は上杉憲顕(山内上杉家)と上杉朝房(犬懸上杉家)の代から上杉氏によって独占されるようになる。

 


◎鎌倉公方の在職期間

足利基氏 1349年~1367年
(享年28歳)

足利氏満 1367年~1398年
(享年40歳)

足利満兼 1398年~1409年
(享年32歳))

足利持氏 1409年~1439年
(享年42歳)自害

足利成氏 1449年~1455年
1455年より古河公方
1497年に没しており享年64歳

鎌倉公方家は若死にの血筋。
基氏以降の歴代公方が幕府との争いを起こしているのは若かったことも原因かもしれない。
古河公方となった第5代鎌倉公方足利成氏が64歳まで生きたので1483年に幕府との和解「都鄙合体」を実現できた。


◎関東八屋形
足利満兼の代には、千葉・小山・小田・佐竹・那須・結城・宇都宮・長沼の八家を優遇する代わりに、鎌倉公方家への忠誠を誓わせ、在鎌倉を義務づけた。


◎篠川公方と稲付公方
足利満兼は2人の弟を奥州に派遣した。篠川公方と稲付公方は鎌倉府が奥州に設置した出先機関。
篠川公方足利満直は幕府の支援を受け足利持氏と対立。
しかし、永享の乱に続き結城合戦がおこると。篠川公方足利満直は、結城氏に味方した奥州南部の豪族に攻められ滅ぼされる。
稲付公方足利満貞は永享の乱で足利持氏に与力し、持氏とともに自害する。


◎満隆騒動

足利満隆は第4代鎌倉公方足利持氏が少年だったので、18歳まで後見役を務めた。1410年に持氏が管領上杉憲定宅に逃げ込む「満隆騒動」が起き、管領が上杉禅定に交代することと持仲を満隆の養子にすることで決着する。上杉禅定の乱で上杉禅定・足利満隆・足利持仲は自害する。




(2)鎌倉公方と関東の争乱

貞治6年/正平22年(1367年)鎌倉公方を継承した足利氏満の代から関東では小山義政の乱・上杉禅秀の乱・永享の乱・結城合戦と関東では争乱が続いていく。これらの争乱は鎌倉公方と守護大名・関東管領・幕府がお互いに牽制しあって争いが生じ、更に大規模な争乱へと発展してしたものである。
これらの争乱を年表にしてみた。

和暦  西暦  出来事  千葉介
北朝 /南朝    
貞治6 /正平22 1367 鎌倉公方足利基氏が死去。足利氏満が二代目鎌倉公方就任。 満胤
康暦2 /天授6 1380  小山義政下野にて宇都宮基綱を殺害。足利氏満討伐に出陣。小山義政投降。(小山義政の乱)  満胤
永徳元/弘和元 1381   小山義政再蜂起。足利氏満討伐に出陣。小山義政投降し出家。(小山義政の乱)  満胤
永徳2/弘和2 1382   小山義政再々蜂起。足利氏満討伐に出陣。小山義政自害。(小山義政の乱) 1397会津にて自害まで小山若犬丸の抵抗続く。 満胤
 応永5  1398 二代目鎌倉公方足利氏満が死去。足利満兼が三代目鎌倉公方に就任。  満胤
応永16  1409 三代目鎌倉公方足利満兼が死去。足利持氏が四代目鎌倉公方に就任。  満胤
 応永23  1416 足利満隆・上杉禅秀が挙兵し、鎌倉公方足利持氏・関東管領上杉憲基駿河に逃げる。上杉禅秀の乱  満胤
応永24  1417 乱の首謀者上杉禅秀・足利満隆・足利持仲自害し乱は終息。上杉禅秀の乱
禅秀方だった千葉介満胤隠居し兼胤が千葉介を継承する。足利持氏が武田信満・岩松満純を討伐。
兼胤
応永25  1418 上総本一揆。 兼胤
 応永29 1422 足利持氏常陸国の山入与義を討伐 兼胤
 応永30  1423 足利持氏下野国の宇都宮持綱・常陸国の小栗満重を討伐 兼胤
 応永31  1424 足利持氏常陸国の真壁秀幹を討伐  兼胤
 応永32  1426 足利持氏常陸国大掾満幹を討伐  兼胤
永享2  1430 千葉介兼胤死去。千葉胤直が家督を継ぐ。  胤直
 永享10  1438  関東管領上杉憲実上野へ下向。足利持氏憲実討伐の為出陣。(永享の乱)
幕府が憲実救援と持氏討伐の軍を下向させたため、関東の有力大名が憲実方に転じ3ヶ月で持氏の敗北にて戦いは終息した。
  胤直
 永享11  1439 足利持氏・足利満貞が鎌倉永安寺で、持氏の嫡男義久は鎌倉報国寺でそれぞれ自害した。(永享の乱)   胤直
 永享12  1440  足利持氏の遺児春王丸・安王丸を結城氏朝が結城城に匿う。幕府軍結城城を包囲。(結城合戦)   胤直
 嘉吉元  1441  結城城落城。結城氏朝・持朝父子戦死。春王丸・安王丸捕らえられ京都に護送中に斬られる。(結城合戦)
播磨・備前・美作の守護赤松満祐によって将軍足利義教が暗殺される。(嘉吉の変)
  胤直
 宝徳元 1449   足利持氏の遺児万寿王丸、足利成氏を名乗る。鎌倉府再興が幕府に承認された。   胤直

 
 
3)小山義政の乱

平安時代平将門の乱で将門追討に活躍した藤原秀郷を祖とする名門小山氏の当主小山義政は、下野国守護職になり常陸国・武蔵国にも大規模な所領を有していた。小山義政の代になって鎌倉公方の頭越しに、将軍家との親密な関係を誇示するようになった。
第2代鎌倉公方足利氏満は小山義政に狙いを定めて追い込んでいった。
同じ下野国のライバルである宇都宮基綱に鎌倉公方足利氏満が肩入れすることで、小山義政に対し挑発的な態度をとった。
康歴2年/天授6年(1380年)小山義政が宇都宮基綱と争い裳原の戦いで敗死させる事件が起きた。。
鎌倉公方足利氏満は、「故線防戦」を理由として小山義政追討の軍を発令し出陣した。鎌倉府の大軍を迎え撃つことになったので小山義政は降伏の意思を表示した。
鎌倉公方足利氏満は足利荘に留まり、白旗一揆※の徴兵をわざわざ将軍足利義満に請うことで、巧妙に将軍の顔をたてながら、小山義政追討の準備を怠らなかった。

翌年の永徳元年(1381年)には足利氏満が再度小山義政追討の軍を発令し出陣し年末までに小山義政を降服させた。

永徳2年/弘和2年(1382年)になると小山氏の重要な所領を失った不満から小山義政が挙兵をしたため、足利氏満は3度目の小山義政追討の軍を発令し出陣した。最後の拠点を失った小山義政は自害し果てた。その後小山義政の子若犬丸が各地で抵抗するが、応永4年(1397年)会津の蘆名氏に捕らえられ処刑され、小山氏の嫡流は滅ぼされた。


※白旗一揆とは、横山党、猪俣党、児玉党、村山党、野与党、丹党(丹治党)、西党(西野党)、綴党、私市党などの武蔵国周辺に勢力を伸ばしていた武蔵七党と呼ばれる同族的集団の中小領主が連合し党的一揆を形成したもの。地域に根を張り、地域一揆として戦闘に参加するようになる。
一揆とはこのように地域に根を張り、同族的集団の中小領主の連合が地域一揆として戦闘に参加することを一揆と呼んでいる。
江戸時代の百姓一揆などのように、一揆は激しく悲壮な闘争行為のイメージが強いが、白旗一揆などの一揆は地域に根を張る中小領主の集団で、鎌倉公方足利氏満との穏やかな封建的関係を構築しながら、在地支配保全に比較的有利な体制側の「雇兵」として活動したのであった。
平一揆の赤備えに対抗し、源氏の白旗を意識し白備えで合戦に参加したことで白旗一揆と呼ばれるようになった。

 (4)小山泰朝が小山氏を継承する

足利氏満は味方した小山氏の一族結城基光を下野国守護として、その子泰朝に小山氏を継がすことで小山氏を存続させた。
小山氏は多くの所領を失ったが、小山持政の代になると復興を遂げ、古河公方足利成氏の為に目覚ましい活躍をすることになる。
下総国下河辺荘など小山義政の乱で鎌倉府の御料所
となった領地が付近に多かったことで、後に足利成氏が古河公方として存続するための経済的な基盤となったことを考えると、小山義政の乱が古河公方成立のための前哨戦だったと言える。


◎小山氏系図から小山義政の乱関係者を抜粋



小山氏は藤原秀郷を祖とする北関東の名門武家である。

A 小山政光
下野国小山荘を有することで小山氏の祖となる。
源頼朝挙兵時に小山氏の武士団が頼朝方になったことで、鎌倉幕府の御家人となる。

B 小山朝政
鎌倉幕府初期の御家人。源平合戦・奥州合戦と各地で転戦。播磨守護。
弟の結城朝光は結城氏の祖。
源平合戦・奥州合戦・承久の乱と各地に転戦し、晩年は鎌倉幕府の評定衆となった。

C 小山氏政
南北朝動乱では北朝方として戦い、観応の擾乱では宇都宮氏綱とともに足利尊氏軍に合流し、薩埵峠の戦いなどで活躍した。

D 小山義政
小山義政の乱で敗れ自害した。

E 小山若犬丸
小山義政が自害した後、祇園城で足利氏満に抵抗したが、応永4年(1397年)会津の蘆名氏に捕らえられ殺された。

F 小山泰朝

結城基光の子。小山義政の乱で小山義政が自害した後、小山氏再興のため、小山氏を継承する。
若くして死んだため子供の小山満泰が家督を継承したとする説と長生きし小山満泰を名乗ったとする説に分かれている。子供の氏朝が兄結城満広の養子となり結城氏朝となる。永享の乱で自害した足利持氏の遺児春王丸・安王丸を匿い結城合戦を戦い、結城氏朝・持朝父子は戦死する。結城氏はその後足利成氏によって再興される。

G 小山持政
結城合戦では幕府方として結城城を攻めたが、享徳の乱では古河公方足利成氏とともに上杉軍と戦い抜いた。


右側の小山氏系図から左側に小山義政の乱関係者を抜粋



 

(5)山内上杉家と犬懸上杉家

初代鎌倉公方足利基氏が上杉憲顕を信濃国から呼び戻し関東管領に就任させたことは既に述べた。
以後関東管領は上杉家によって独占されるようになる。
上杉憲顕は後任の関東管領には、憲顕の子である上杉能憲と甥で娘婿の上杉朝房を就任させた。これにより、右の上杉氏系図に書かれている上杉氏系図に書かれてる山内上杉家と犬懸上杉家が関東管領として鎌倉公方を補佐することになる。
後に長享の乱で山内上杉家と争うことになる扇谷上杉家は格下の存在であった。

上杉憲顕には能憲意外にも憲春・憲方などの子がおり、憲春・憲方が関東管領になっている。山内上杉家の系図は複雑で、右の上杉氏系図では系図が読みにくくなるので省略する。
山内上杉家出身の関東管領(憲春・憲方・憲定・憲基)は、幕府権力を背景とし鎌倉府内に影響力を保つことにより、鎌倉公方の増長を抑えながら幕府と鎌倉府の決定的な対立を防ぐ役割を果たしててきた。
又、守護国の上野・伊豆を基盤に、越後守護の上杉家・信濃の小笠原氏・駿河の今川氏と連携し、常陸の佐竹氏・下野の宇都宮氏とも友好関係出会った。

犬懸上杉家は鎌倉公方との密着性で上杉朝宗の代に急速な勢力の拡大をしたことにより、鎌倉公方権力を背景に勢力基盤を築き上げ、更に鎌倉府管内の有力大名などと婚姻などにより親密な関係を築いた。
朝房の代に上総・信濃の守護、朝房・氏憲(禅秀)の代に上総・武蔵の守護に補任されているが、山内上杉家に比べ見劣りする。
鎌倉公方家を背景に鎌倉府管内に勢力基盤を築いた犬懸上杉家も、上杉氏憲(禅秀)の代に鎌倉公方足利持氏に煙たがられる存在になってしまった。
鎌倉公方足利持氏と山内上杉家の接近が上杉禅秀の乱につながってしまった。



 
 (6)上杉禅秀の乱

上記「満隆騒動」後、第4代関東公方足利持氏の後見役として足利満隆が、関東管領として上杉禅定が務めていた。
しかし、応永22年(1415年)4月足利持氏が関東公方の主体性を顕示するため、些細な理由で上杉禅秀配下の越幡六郎の所領を没収してしまった。
それに抗議して上杉禅秀が管領辞職を申し出ると、持氏は受理し新たな関東管領に山内上杉家の上杉憲基を任命した。
これにより足利持氏と上杉禅秀は鋭く対立するようになる。
応永23年(1416年)10月上杉禅秀が蜂起し由比ヶ浜合戦で足利持氏・上杉憲基の軍を破り鎌倉を制圧。足利持氏は駿河に、上杉憲基は越後に逃走した。
その後、幕府が持氏方の支援を決め、越後上杉氏・信濃小笠原氏・駿河今川氏に派兵の命令を下した。
幕府の方針決定で、禅秀方だった武蔵国豊島氏・江戸氏・南一揆などの諸勢力が持氏方に寝返り戦況は一変した。

暮れには上杉禅秀の敗色が濃厚になったので、更に味方から寝返りが続出した。
応永24年(1417年)1月10日鎌倉雪の下御坊で、上杉禅秀は足利満隆・足利持仲とともに自害し、上杉禅秀の乱は終息した。

 
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