明応2年(1493年) |
鶴岡八幡宮若宮別当尊敒(足利成氏の弟)、足利愛王丸(義明の幼名)に別当職を譲る。 |
鑁阿寺文書※ |
文亀3年(1503年) |
別当足利愛王丸(義明の幼名)得度して空然と称す |
鑁阿寺文書 |
永正3年(1506年) |
古河公方足利政氏と子の高基と不和となる。次いで高基下野国宇都宮に移る。 |
当時高基は高氏と称した |
永正6年(1509年) |
足利高基、関東管領上杉顕定の仲介により父政氏と和し古河城に戻る。(高氏から高基に改名) |
喜連川判鑑 |
永正7年(1510年) |
空然(足利義明)宗斎と改名する。宗斎、武蔵国太田荘に挙兵。兄足利高基も下総国古河より関宿に移る。
宗斎、下野国小山城に移り還俗して足利義明と名乗る。 |
足利系図他 |
永正9年(1512年) |
古河公方足利政氏、古河城を退去し下野国小山城に移る。足利高基、関宿城から古河城に入り古河公方を称す。足利義明小山領に入部し「南之上様」と尊称される。 |
秋田藩採集文書他
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永正11年(1514年) |
足利政氏、佐竹義舜・岩城由隆等に命じて古河城の足利高基を攻める。
古河公方足利高基、宇都宮忠綱等に命じて政氏軍を迎撃させる。 |
秋田藩採集文書他 |
永正13年(1516年) |
足利政氏、上杉朝良の勧めにより下野国小山城より武蔵国岩付城に移る |
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永正14年(1517年) |
真里谷如鑑、別当足利義明を奉じて、下総国小弓城を攻略し原次郎(友幸)を討つ。
足利政氏、白田太郎に自身及び下総国(下野国の間違い)高柳在住の子同義明への忠節を求む。 |
快元僧都記
白田文書 |
永正15年(1518年) |
足利義明小弓城に移り小弓公方となる。 |
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永正16年(1519年) |
古河公方足利高基、小弓公方に属する真里谷氏の椎津城を攻撃する。
足利政氏岩付城から武蔵国久喜甘棠院に移る。 |
常総文書他 |
大永6年(1526年) |
里見実堯鎌倉を攻め、鶴岡八幡宮以下の諸堂社を焼く。北条氏綱これを撃退する。(鶴岡八幡宮の戦い) |
北条記他 |
享禄元年(1528年) |
古河公方足利高基、小弓公方足利義明の対立続く。 |
上杉文書 |
享禄4年(1531年) |
北条軍、里見軍と上総国小櫃山に戦う。 |
小櫃山縁起 |
天文3年(1534年) |
小弓公方足利義明、真里谷信隆の椎津城に攻め込む |
快元僧都記 |
天文6年(1537年) |
里見義堯、北条氏綱と絶ち真里谷信応を授け、小弓公方足利義明を奉じ真里谷信隆を攻撃する。真里谷信隆降伏する。 |
快元僧都記 |
天文7年(1538年) |
10/2小弓公方足利義明・里見義堯下総国の国府台に進出する。古河公方足利晴氏の要請を受け北条氏綱父子小田原を出発する。
10/6北条氏綱江戸城を出陣。
10/7北条氏綱・氏康父子、国府台にて小弓公方足利義明・里見義堯と戦う。(第一次国府台合戦)
足利義明・義純父子と弟の基頼戦死。里見義堯安房に走る。義明の子国王丸(後の頼純)は安房の里見氏を頼る。 |
快元僧都記 |