上総金田氏の歴史(歴代記)
 

   

 
 
第七章  上総金田氏の終焉 その2
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第一章 第二章 第三章 第四章 第八章

 
  第六章では上総金田氏と上総武田氏の関係について述べてきた。第七章では上総金田氏の終焉につながる出来事を扱う。
その出来事とは、古河公方足利高基の弟足利義明を擁した真里谷氏・里見氏が、古河公方足利高基に属する千葉氏・庁南武田氏と争い勝利し小弓公方足利義明の誕生となる出来事である。
小弓公方足利義明については兄である古河公方足利高基と不仲になり奥州を放浪していたというのが通説だったが今日では誤りと指摘され、古河公方家の内紛で父足利政氏が兄足利高基に敗れ武蔵国岩付城に移ってくるまで父を支え、その後真里谷信勝の誘いに応じて両総方面で新たに小弓公方として自立したと考えられる。
里見氏についても南総里見八犬伝などの影響で歴史的事実が歪められ伝わっている可能性が高く、里見氏に関する小説などを読んでも参考にはなりにくい。しかし上総金田氏終焉に里見氏が関与したことは千葉大系図などの内容から類推することができるので、里見氏を調べることでによって上総金田氏がどのように終焉を迎えたのかを解明したい。

 
金田常信(蕪木常信から改姓) 金田信定 金田宗信  ― 金田信吉   金田正信
       
   └  金田正興
                 (三河金田氏祖) 
 
 
 (2)小弓公方足利義明


足利義明について不明なことが多いが、これは関係する古河公方家・上総武田氏・里見氏の歴史的資料が自分に都合良く改ざんされたり省略されたことによる。
足利義明についての記述が多い鶴岡八幡宮年表と関係する諸家の歴史的資料を照合することで実態を把握したいと思う。
鶴岡八幡宮年表に足利義明について関連する事項は下記の通りである。

明応2年(1493年)  鶴岡八幡宮若宮別当尊敒(足利成氏の弟)、足利愛王丸(義明の幼名)に別当職を譲る。  阿寺文書※
文亀3年(1503年)  別当足利愛王丸(義明の幼名)得度して空然と称す  阿寺文書
永正3年(1506年)  古河公方足利政氏と子の高基と不和となる。次いで高基下野国宇都宮に移る。  当時高基は高氏と称した
永正6年(1509年)  足利高基、関東管領上杉顕定の仲介により父政氏と和し古河城に戻る。(高氏から高基に改名)  喜連川判鑑
永正7年(1510年)   空然(足利義明)宗斎と改名する。宗斎、武蔵国太田荘に挙兵。兄足利高基も下総国古河より関宿に移る。
宗斎、下野国小山城に移り還俗して足利義明と名乗る。
 足利系図他
永正9年(1512年) 古河公方足利政氏、古河城を退去し下野国小山城に移る。足利高基、関宿城から古河城に入り古河公方を称す。足利義明小山領に入部し「南之上様」と尊称される。  秋田藩採集文書他
永正11年(1514年)  足利政氏、佐竹義舜・岩城由隆等に命じて古河城の足利高基を攻める。
古河公方足利高基、宇都宮忠綱等に命じて政氏軍を迎撃させる。
 秋田藩採集文書他
永正13年(1516年)  足利政氏、上杉朝良の勧めにより下野国小山城より武蔵国岩付城に移る  
永正14年(1517年) 真里谷如鑑、別当足利義明を奉じて、下総国小弓城を攻略し原次郎(友幸)を討つ。
足利政氏、白田太郎に自身及び下総国(下野国の間違い)高柳在住の子同義明への忠節を求む。
快元僧都記
白田文書
永正15年(1518年) 足利義明小弓城に移り小弓公方となる。  
永正16年(1519年) 古河公方足利高基、小弓公方に属する真里谷氏の椎津城を攻撃する。
足利政氏岩付城から武蔵国久喜甘棠院に移る。
 常総文書他
大永6年(1526年) 里見実堯鎌倉を攻め、鶴岡八幡宮以下の諸堂社を焼く。北条氏綱これを撃退する。(鶴岡八幡宮の戦い)  北条記他
享禄元年(1528年) 古河公方足利高基、小弓公方足利義明の対立続く。  上杉文書
享禄4年(1531年) 北条軍、里見軍と上総国小櫃山に戦う。  小櫃山縁起
天文3年(1534年)  小弓公方足利義明、真里谷信隆の椎津城に攻め込む  快元僧都記
天文6年(1537年) 里見義堯、北条氏綱と絶ち真里谷信応を授け、小弓公方足利義明を奉じ真里谷信隆を攻撃する。真里谷信隆降伏する。  快元僧都記
 天文7年(1538年) 10/2小弓公方足利義明・里見義堯下総国の国府台に進出する。古河公方足利晴氏の要請を受け北条氏綱父子小田原を出発する。
10/6北条氏綱江戸城を出陣。
10/7北条氏綱・氏康父子、国府台にて小弓公方足利義明・里見義堯と戦う。(第一次国府台合戦)
足利義明・義純父子と弟の基頼戦死。里見義堯安房に走る。義明の子国王丸(後の頼純)は安房の里見氏を頼る。
 快元僧都記
阿寺(ばんなじ) 栃木県足利市家富町にある足利義兼創建


足利成氏  ― 足利政氏   足利高基  ―  足利晴氏
(古河公方)   (古河公方)     (古河公方)   (古河公方) 
   └  足利義明    
         (小弓公方)    


◎鎌倉公方・古河公方の系図でる喜連川判鑑では次のように記載されている。このように簡略な扱いになっていることについて次項で検証したい。

 
系図では政氏の次男 生実御所と号す。天文7年10月5日下総国国府台にて戦死。雪下殿。右兵衛佐。小弓御所。
足利義明
     
 大永5年(1525年)  古河公方足利高基の弟足利右兵衛佐義明、先年父足利政氏と不和により奥州へと落ちていった。武田豊三大将が(足利義明を)取立て、総州小弓城主原友幸を攻撃し落城させる。足利義明は小弓城に移り生実御所と呼ばれるようになる。里見義弘は周辺の武士を従え威勢を張った。
足利高基 
大永6年(1526年) 里見義弘小弓公方足利義明の命により鎌倉に攻め込む。(鶴岡八幡宮の戦い)
足利高基
天文7年(1538年) 10/4小弓御所足利義明逆心の企てにより、討伐のため小田原北条氏を派遣。
10/5国府台にて合戦。子息(義純)・基頼など討死。足利義明は北条氏綱の家臣横井山城守の矢に当たり討死。
残った子息(国王丸)は安房国に落ちのびる。
足利晴氏 


◎小弓公方足利義明の実像を探る。
  • 足利愛王丸として鶴岡八幡宮若宮別当職を譲られた。その座所は当時高柳御所と呼ばれ現在は寶聚寺(埼玉県久喜市高柳)が建っている。後に父足利政氏が白田太郎に自身及び足利義明への忠節を求めた時に、足利義明を「高柳に在住の子」と称したのは高柳御所にちなんだものと思われる。 後に空然と称すようになり東国宗教界の最高権威者を17年間務めたが、おそらく永正7年に還俗した時でも20代前半だったと推測される。
  • 永正7年に宗斎と改め挙兵、小山城に移り還俗して足利義明と名乗ったと書かれている。小山城主小山成長は古河公方足利政氏を支持する中心人物であった。このことから足利義明は父足利政氏が嫡子高基と対抗するために還俗することを求められたのではないだろうか。
  • 永正9年父足利政氏が古河城を退去し小山城に移ると、政氏を「上様」義明を「南之上様」と尊称するようになったと考えられる。宇都宮成綱・結城政朝を中心とする高基派の圧迫によって足利政氏は古河城を退去せざるを得なくなったことによる。その後、古河城に入城した足利高基が古河公方を称し政氏に勝利した。
  • 永正11年足利政氏に味方した佐竹義舜・岩城由隆等が下野国に出陣、那須口の戦いで宇都宮忠綱の軍に勝利するが、追撃した宇都宮竹林の戦いで父宇都宮成綱・結城政朝の援軍を得た宇都宮忠綱の軍に敗北する。永正13年再び佐竹義舜・岩城由隆等が下野国に出陣、これを迎え撃った宇都宮成綱・忠綱父子によって縄釣の戦いで決定的な敗北となった。この結果、古河公方足利高基は父足利政氏との争いに勝利したことが確定した。
  • 永正13年小山氏でも小山政長が父成長より実権を掌握し高基側に転向、足利政氏は小山城を追い出され扇谷上杉家の岩付城に移る。もしも、足利義明が父足利政氏から後継者とされ行動を共にしていたのなら進退窮まる状況になっていたはずである。
  • 永正14年になり真里谷氏が足利義明を奉じて小弓城を攻略し、小弓公方に足利義明とが就任することは上記の経緯と一致している。父政氏が兄高基に敗北したので政氏の後継者になれなくなったが、新たに真里谷氏の招きに応じることで、南関東の覇権を握ったうえで兄足利高基に立ち向かう決心をしたと考えられる。次項でこのことは更に検証する。
  • 永正16年(1519年)古河公方足利高基が 下総・常陸の軍勢を率いて真里谷氏の椎津城を攻撃する。これ以後古河公方足利高基と小弓公方足利義明の対立が享禄元年まで10年続くことになる。享禄2年(1529年)になると古河公方足利高基と嫡子晴氏の対立による関東享禄の内乱が勃発。享禄4年足利晴氏が勝利し破れた足利高基は隠居することになった。 但し正式に足利晴氏が古河公方に就任したのは父足利晴氏が没した天文4年(1535年)。
  • 大永6年「里見実堯が鎌倉を攻め、鶴岡八幡宮以下の諸堂社を焼く。」(里見系図)「里見義弘鎌倉に攻め込む」(喜連川判鑑)については、喜連川判鑑が里見実堯を孫の義弘と誤ったか何か意図があって記載したものと思われる。当時北条氏綱は武蔵国を巡って上杉朝興(扇谷上杉家)と対立関係にあった。上杉朝興は小弓公方・里見氏・真里谷氏更に甲斐守護武田信虎とも手を結び反北条の包囲網を築いていた。里見実堯が鎌倉を攻め込んだのもこの一環として行われた。
  • 享禄4年「北条軍、里見軍と上総国小櫃山に戦う。」については、武蔵国での扇谷上杉家との争いで手一杯な北条氏綱にとって、上総国に奇襲攻撃をかける余裕はなかったと考えられる。
  • 里見系図による「文亀3年(1503年)8月里見氏が小弓公方に忠義な真里谷如閑を(讒口が原因で)攻め落とす。」上総武田氏系図其二による真里谷信保のこととして「天文3年(1534年)小弓公方足利義明の勘気をこうむり出家し如鑑と号した。その年の7月に没した」と書かれていることから、天文3年に真里谷信保は讒言により小弓公方足利足利義明の怒りを買い剃髪し如鑑と号した。それでも公方の怒りは収まらず死に追い込まれたと既に述べた。
  • 鶴岡八幡宮年表に真里谷如鑑のことは書かれていないが、「天文3年小弓公方足利義明が椎津城の真里谷信隆を攻め込む」と書かれていることで、真里谷如鑑が讒言により小弓公方足利義明から死に追い込まれたことが戦いの原因と判断される。
真里谷如鑑の謎の死が起きた天文3年には里見義豊が従兄弟の里見義堯に討ち取られるなど事件が多く、さらに小弓公方が討死した第一次国府台合戦が起きる天文7年まで小弓公方周辺では争いが続くのであらためて検証したい。

 
 


小弓城地図(村田川が上総国と下総国の境)

 

 (3)喜連川判鑑と小弓公方足利義明


喜連川判鑑に記されている足利義明を検証する上で重要なことは、古河公方足利高基に対し弟の小弓公方足利義明は敵対関係にあったことを考慮する必要がるある。喜連川判鑑には足利義明のこととして直接書かれているのは、下記のように簡略にしか述べていない。
 生実御所と号す。天文7年10月5日下総国国府台にて戦死。雪下殿。右兵衛佐。小弓御所。

喜連川判鑑では小弓公方足利義明に関連する多くの出来事について無視されたり改ざんされている。とりわけ小弓公方として自立し、その後南関東に権力基盤を築き上げたことについて、喜連川判鑑の基になる古河公方系図編者は扱いに苦慮したのではないだろうか。そのことを考慮しながら小弓公方足利義明と古河公方との関係について述べたい。

  • 足利愛王丸として鶴岡八幡宮若宮別当職を譲られ、後に空然と称し東国宗教界の最高権威者を17年間務めたことは、喜連川判鑑に雪下殿と記されていることからも事実であったと考えられる。
  • 今日では奥州を放浪していたというのは誤りと指摘されており、喜連川判鑑に記載の「先年父足利政氏と不和により奥州へと落ちていった」との記述が虚偽であることは明白である。実際は父足利政氏が嫡子高基と対立したことから、東国宗教界の最高権威者である次男空然に対し、還俗して古河公方の後継者になることを求めたということであろう。空然は宗斎と改め小山城に移り、その後還俗し足利義明と称したのはそのような経緯があったからこそなのである。
  • しかし父足利政氏は兄である古河公方足利高基に破れ永正13年武蔵国岩付城に落ちのびることになってしまった。古河公方足利高基が勝利し、父足利政氏から後継者と望まれ、父政氏と行動をともにしてきた足利義明は進退窮まることになってしまった。喜連川判鑑では「父と不和により奥州を放浪してしていた」と記載することで、足利義明が父政氏と行動をともにしてきた上記記載の事実を故意に隠蔽したのであった。
  • 永正14年千葉介勝胤の一族小弓城主原友幸と争っていた真里谷信勝が足利義明を両総方面の公方として招聘した。真里谷氏は自ら両総管領とか執権と称したことからも真里谷氏の権威付けに足利義明を利用しようとした。小弓公方と呼ばれるのは小弓城落城後のことであろうが、足利義明自身は父古河公方足利政氏の後継者として(真里谷氏に招かれた時点で)公方を称した可能性は高い。足利義明が真里谷氏に公方として担がれ、それに応じたのが安房国里見氏であった。 喜連川判鑑では足利義明を招いたのが武田豊三大将と書かれているが、この時期の真里谷氏当主は真里谷信勝であり、豊三大将とは真里谷信勝のことを指すと考えられる。
  • 真里谷氏・里見氏は当時古河公方に属していた庁南武田氏の庁南城を攻め落とし、庁南武田氏を足利義明に属させることに成功した。これにより上総国・安房国と敵対関係になった下総国千葉氏は劣勢になり小弓城の原友幸を支援する力が弱まり、真里谷氏・里見氏の攻勢で小弓城は落城したのであった。小弓城が落城したのが永正14年だったのに喜連川判鑑では大永5年としたことについて次項で検証する。
  • 永正15年小弓城が小弓御所(又は生実御所)として整備されると足利義明が小弓公方として移り、父の代から良好な関係にあった武蔵国扇谷上杉家からも支援され南関東に一大勢力圏を築き上げた。 永正16年小弓公方足利義明の勢力拡大に危機意識を持った古河公方足利高基は、下総国・常陸国の諸将を率いて出陣し上総国椎津城(市原市椎津)を攻める。椎津城は交通の要衝であり真里谷氏の重要拠点でもあった。椎津城攻めは成功せず、その後も古河公方足利高基と小弓公方足利義明の対立が享禄元年まで続くことになる。椎津城攻めは古河公方足利高基自ら出陣した重要な出来事なのに喜連川判鑑では無視していることについても次項で検証する。
  • 大永4年北条氏綱(小田原北条氏)が武蔵国に進出し、上杉朝興(扇谷上杉家)を高輪原の戦いで破り江戸城を奪い河越城に逃亡させた。危機的状況となった上杉朝興はその後、山内上杉家・甲斐国守護武田信虎・小弓公方などと和を結び反小田原北条氏の包囲網を築くことになる。このように南関東での勢力図の激変が起きた大永5年を小弓城落城の年とすることが、喜連川判鑑の編者にとって好都合だったと考えられる。
  • 扇谷上杉家に味方した里見実堯が北条氏綱が支配する鎌倉を攻め、鶴岡八幡宮以下の諸堂社を焼く事件を喜連川判鑑にわざわざ記載しているのは興味深い。「小弓公方の命により」と書くことで、空然と称し東国宗教界の最高権威者だった小弓公方足利義明のイメージを鶴岡八幡宮焼き討ちで失墜させることが目的なのは明瞭である。但し里見実堯を喜連川判鑑では孫の里見義弘と書かれているのは何か意図があったのではないだろうか。
  • 享禄2年以降は古河公方足利高基と嫡子晴氏の対立が起こる。この関東享禄の内乱で古河公方は更に弱体化していったのであった。 喜連川判鑑の編者は弱体化した古河公方親子の争いはあえて無視した。
  • 「天文7年古河公方に対する逆心の企てにより討伐のため小田原北条氏を派遣。10月5日下総国国府台にて戦死。」喜連川判鑑では逆心を強調して書くことにより小弓公方が古河公方に従属していたような印象に記したと思える。


「天文7年古河公方に対する逆心の企てにより討伐のため小田原北条氏を派遣。10月5日下総国国府台にて戦死。」
これだけが喜連川判鑑では唯一の事実として記され、小弓公方足利義明に関わる事項の多くは無視されたり脚色されたものであった。
このように喜連川判鑑にて小弓公方足利義明が扱われた理由は、小弓公方足利義明が小弓御所に移り南関東における一大勢力圏を築き上げ古河公方に対抗できる権威を保持したことによる。古河公方足利高基は(小弓公方足利義明)討伐に失敗し更にその後嫡子晴氏とも争うことになり、古河公方は次第に弱体化していくのであって、喜連川判鑑の編者は詳細に書くことを避けたと考えられる。

(4)小弓城落城と原友幸


喜連川判鑑に永正14年に起きた小弓城落城を古河公方足利高基の代(大永5年)の出来事として下記のように書かれていることは既に述べた。

武田豊三大将が(足利義明を)取立て、総州小弓城主原友幸を攻撃し落城させる。足利義明は小弓城に移り生実御所と呼ばれるようになる。


喜連川判鑑では小弓城落城を永正14年から大永5年 まで先延ばしすることで、大永5年まで古河公方足利高基の覇権が南関東にまで及んでいたように見せかけることを意図していたのである。そのために足利高基による椎津城攻めも無視したのである。
小弓城の落城を永正14年から無理に大永5年としたため、真里谷氏の当主信勝が大永3年に没したことと矛盾することになってしまった。そのことが武田豊三大将という曖昧な名前で真里谷氏当主を呼ぶようになった原因と考えられる。

千葉大系図には小弓城落城について下記内容で書かれている。

(千葉大系図)
大永年中、真里谷三河守武田豊三、何度も行朝(友幸の別名)と戦った。足利義明を迎えた真里谷武田氏の攻撃により生実城がついに落城した。行朝(友幸の別名)が小金城主の高城氏のもとに退却しようとしたところで戦死した。足利義明が生実城に入り小弓御所と号す。

  • 大永年中としたのは千葉氏が属している古河公方家の喜連川判鑑※を考慮して書かれたと判断される。。
  • 武田豊三についても同様であるが庁南武田氏と真里谷武田氏を明確に区分するために真里谷三河守と書かれたもの。
  • 千葉大系図では小弓城落城の城主を原行朝とし別名として友幸と称している。喜連川判鑑・里見系図で原友幸と書かれていることから、当時の小弓城主が原友幸であったことは間違いない。
  • 小金城主の高城氏のもとに退却と書かれているが当時小金城は築城されておらず、高城氏が根木内城を居城としていたことから根木内城のことと考えられる。
  • 千葉大系図では里見氏のことについては特段述べていない。小弓公方足利義明を擁する真里谷信勝の軍に加わって小弓城落城に貢献したことは確かだが、中心は真里谷氏の軍勢だったはずなのである。ところが喜連川判鑑では「里見義弘は周辺の武士を従え威勢を張った。」とわざわざ書き加えられている。里見義弘は永禄年間(1558年~1570年)に里見氏の家督を継承し安房国・上総国・下総国に支配地域を有した人物である。古河公方足利晴氏の娘婿だったことを勘案すると、40年以上後の里見氏当主の名前を喜連川判鑑に記したのは何か意図があったと考えられる。

このように千葉大系図・喜連川判鑑で扱われた小弓城落城を検証したが、更に里見系図で扱われた小弓城落城についても検証したい。
永正14年(1517年)より14年も前の出来事として小弓城落城を扱ったのである。

文亀3年(1503年)原友幸が守る生実城の攻撃を里見軍が開始する。原友幸は激しく抵抗したが、優勢な里見軍になすすべも無く原友幸は自害し落城した。生実城が落城すると周辺の領主たちが里見成義に従い、上総国の多くの城が成義に降伏した。

喜連川判鑑で小弓城落城を大永5年として記した際に「里見義弘は周辺の武士を従え威勢を張った。」と書かれていることと、里見系図で文亀3年「生実城が落城すると周辺の領主たちが里見成義に従い、上総国の多くの城が成義に降伏した。」と書かれていることは、里見義弘の代に安房国・上総国・下総国に支配地域を有し小田原北条氏と対立するまで勢力基盤を築いた里見義弘が自らを正当化する必要性から生じたものである。

参考としてWikipediaに書かれてる「稲村の変」では次のような見解

天文3年(1534年)に里見氏当主であった里見義豊を倒し稲村の変で勝利した里見義堯について次のような見解がされている。

勝者である里見義堯にとって見れば、
  1. 正統な当主である義豊を誅殺して里見氏の家督を奪ったこと
  2. そのために里見氏にとっては仇敵である北条氏の援助を受けたこと
  3. 程なく北条氏を裏切って対立陣営である小弓公方側に寝返ったこと

など里見氏当主としてはあまりに都合の悪い事実だけが存在していた。


天文3年(1534年)に真里谷信保が小弓公方足利義明の勘気を被り剃髪して恕鑑と号す。同年に没したことは既に述べた。
里見系図に小弓公方足利義明に忠有なる真里谷如鑑が讒言により(里見氏によって)攻め落とされたと書かれていることを勘案すれば、真里谷如鑑は無実の罪で小弓公方足利義明によって殺害されたと考えられる。
天文3年(1534年)は小弓公方足利義明を支えてきた真里谷氏の当主真里谷信保と里見氏の当主里見義豊が殺害された年なのである。
この結果、真里谷氏は小弓公方に属する真里谷信応と敵対する真里谷信隆に分裂することになる。北条氏綱に支援された里見義堯が里見氏当主になったことも考えると小弓公方足利義明にとって厳しい状態になってしまったのである。
新たな里見氏当主になった里見義堯が北条氏綱と絶ち北条氏綱の支援を受けた真里谷信隆を攻撃したのが天文6年(1537年)。上記では「北条氏を裏切って対立陣営である小弓公方側に寝返ったこと」と書かれているが、もしかしたら北条氏と裏では気脈を通じていたのではという疑いが残る。

天文7年(1538年)武蔵国に進出してきた北条氏綱と小弓公方足利義明が第一次国府台合戦で討ち死にするが、里見義堯は一度も交戦することなく戦場をを離脱したことは不思議な話である。どう考えても里見義堯は足利義明を見殺しにしたとしか考えられないのである。
第一次国府台合戦で勝利した北条氏綱は古河公方足利晴氏から関東管領に任じられ、上総国では北条氏綱の支援を受けた真里谷信隆が復権する。
里見義堯が小弓公方足利義明の遺児国王丸(後の足利頼純)を匿ったことや前年に北条氏綱を裏切ったことを考えれば、北条氏綱による安房征伐が起きてもおかしくないのに無かった。北条氏と裏では気脈を通じていたのではという疑いが益々高まる。

さとみ物語によれば天文12年(1543年)13年(1544年)の笹子城中尾城をめぐる争乱が起き、真里谷信隆が一族の内紛で弱体化すると里見義堯の上総国への進出が本格化。大多喜城・勝浦城などを攻め落とすことになる。この里見義堯による上総国での勢力拡大が北条氏康との緊張関係となり永禄7年(1564年)の第二次国府台合戦となるのだが、その経緯はここでは省略する。
里見義堯・義弘父子によって里見氏は安房国・上総国・下総国に支配地域を有する戦国大名になることができた。
しかし正統な当主である義豊を誅殺して里見氏の家督を奪い、更に小田原北条氏を利用し小弓公方足利義明を自滅させ、真里谷氏の内紛につけ込むなどあらゆる謀略をめぐらしたことによるものであった。

このような事情から里見義久の代になると里見系図を都合良く改ざんしたり、喜連川判鑑にも影響力を行使したと考えられる。
小弓城を落城させ原友幸を自害させたのを文亀3年(1503年)に書くことで、里見成義の代に起きたこととしたのである。
更に里見成義の代には上総国に支配地域を確保していたように書かれたのであった。
しかし、里見系図に書かれていることは年代は
事実と違っていても、多くの事柄はその後事実となったことであり、歴史的資料としては貴重なものと考えられる。



※喜連川判鑑・千葉大系図は江戸時代に成立したものであり、どちらも古河公方家・千葉宗家に伝わる系図などの歴史的資料に基づき作成されたもので正確にはそれら基になった資料と書くべきだろうが、ここでは喜連川判鑑・千葉大系図と便宜的に書いている。

     



(5)原氏系図 

初代原胤高を千葉満胤の子として系図に記載しているが、千葉一族のHP原胤高について記載されている原胤高の事項では諸説紹介されている。これによれば満胤の子よりも氏胤の子とした意見が有力らしい。
しかし、今回は原友幸の存在を明確にするため千葉大系図に従って系図を作成した。千葉大系図では原友幸は原行朝とも称したと書かれている。原氏の多くは胤の字を名前に使用しているが、原友幸は胤の字が無いのが特徴である。
原友幸は小弓城主として小弓城の戦いで討死したが、その後第一次国府台合戦に勝利した小田原北条氏によって小弓城は原氏に返された。千葉大系図を見る限り原胤定が小弓城主に復権したとように感じられる。

しかし、Wikipediaには小弓城主に復権したのは原胤清と書かれており、千葉大系図に書かれている原胤定と相違している。小弓城が原氏に返された時期ならば原胤清の年代の方が相当と思われ、千葉大系図に書かれている原胤定の記載については疑問を感じる。
原胤定について調べても千葉大系図以外では扱われていない。
千葉一族のホームページでは「原胤隆」が原胤清の父とされている。
千葉大系図に書かれている原胤定と千葉一族ホームページ記載の原胤隆が同一人物と考えたいが、原胤隆の父についても諸説ある。
そして原胤清の子が原胤貞で、胤貞の子が胤栄と千葉大系図とかなり異なっているのだ。
原氏については今後更に研究が進むことを期待する。
   
原胤隆  ― 原胤清   原胤貞  ―  原胤栄

 


 
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