上総金田氏の歴史(歴代記)
 

   

 
 
第五章  享徳の乱 その2 
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第一章 第二章 第三章 第四章 第六章 第七章 第八章

 
 千葉大系図には、文明年中(1469年~1487年)千葉氏が安西氏・里見氏と国境で戦いその武功により蕪木常信が金田姓に復することができたと記されている。金田系図にも同様のことが書かれてる。
寛政重修諸家譜には金田常信が岩井城に住み千葉氏の求めに応じて安西氏・里見氏と戦い武功があったとの記述になっている。金田系図にも岩井城に住んだことが書かれている。
いずれにしても、千葉大系図・寛政重修諸家譜・金田系図では金田常信が千葉氏の求めに応じて安西氏・里見氏と戦い武功があったことでは一致している。
金田常信の代に金田姓に復したことと安西氏・里見氏と戦うことになった経緯を知るためには、享徳の乱がどのように千葉宗家や上総国に影響をしたか、その結果金田常信の代に何が起きたかを調べねばならない。第五章では30年に及ぶ戦乱である享徳の乱を扱う。

 
蕪木常正 金田常信(蕪木常信から改姓) 金田信定 金田宗信  ― 金田信吉   金田正信
       
   └  金田正興
                     
 
 (4)太田道灌と千葉孝胤

文明10年(1478年)古河公方足利成氏と上杉氏は和睦したが、和睦に反対した長尾景春と千葉孝胤は古河公方の撤収を阻止したり、上杉勢に最後まで抵抗したことが通説である。上野国滝陣(群馬県高崎市)からまっすぐ古河城に戻らず、成田陣(埼玉県熊谷市)に行った古河公方の行動が謎である。
更に今日の東武東上線と京成本線のいずれも終点近くを拠点とする長尾景春と千葉孝胤が、山内上杉家の守護国であり、扇谷上杉家が拠点として江戸城・岩槻城・河越城を中心とする勢力圏を築き上げた武蔵国を軍勢をつれて熊谷まで自由に往復することができるのだろうか。
このような疑問が生じたため、この時期の重要な資料である鎌倉大草子の長尾景春の乱について検証することにする。
鎌倉大草子の太田道灌に係わる文章は、太田道灌が山内上杉家の家臣高瀬民部少輔に宛てて出した「太田道灌状」に基づくことは間違いないからである。幸い軍記を読むサイトの芝蘭堂が鎌倉大草子を口語に直しており、ここで活用させてもらう。

 

- 長尾景春の乱・その4 -


扇谷の定政は、同正月二十四日に道灌を伴って河越に帰陣した。

 同二十五日、豊島勘解由左衛門(泰経)の平塚の要害に押し寄せて攻めたところ、敵は明け方に城を落ちて、今度は丸子城と小机城に立て籠もった。

 上杉定政は河越に籠もった。

 長尾景春は吉里宮内左衛門以下を伴い、小机の城を後詰めするために大石駿河守の二宮の城に着陣した。

 同三月十日、河越の城から二宮に押し寄せたところ、景春は敗れ、成氏の御陣所の成田に参上して、千葉新助孝胤とともに羽生峰に陣を取った。

 同十九日、太田図書助資忠は小机の陣から引き返し、同二十日、羽生に馳せ向かった。定政も軍勢を出した。

 孝胤・景春は一戦にも及ばず退いた。大石駿河守の立て籠もる二宮の城も降参した。相州磯辺の城も小沢の城も自落した。

 敵の残党は、奥三保というところに立て籠もった。

 太田道灌は村山に陣を取り、舎弟の太田図書助と同六郎を大将として奥三保に馳せ向かった。

 敵の本間近江守と海老名左衛門は、甲斐国鶴瀬の住人の加藤など、国境の兵どもを催して、同十四日、逆に攻め寄せて来た。太田図書助資忠が先手として進んで防戦し、海老名左衛門を初めとして多数の敵を討ち取った。道灌も村山の陣から押し寄せたので、敵は敗れた。そこを追いかけ、甲州の境を越えて加藤の要害へ押し寄せ、鶴河所というところを放火して帰陣した。

 同十七日、荒川を越えて鉢形と成田の間に陣を取った。

 成田の御陣から簗田中務大輔が使者を遣わして、「上州で申し合わせましたように、公方と上杉は上下とも御和談ということで別儀ありませんが、景春が公方の御近辺に参ってしきりに懇請するため、公方が難儀に思し召しており、景春を追い払って古河へ御帰座されたく思っていらっしゃいます」と言って来た。

 そこで、太田道灌が馳せ向かったところ、景春は敗北したので、その間に成氏公は利根川を越えられ、七月十七日に古河の城に御帰座された。

 顕定は鉢形の城に天子の御旗を立て、そこを居城とした。


鎌倉大草子45の検証


◎鎌倉大草子45に書かれている内容

文明10年(1478年)正月古河公方と上杉氏の和睦が成立した。
和睦が成立後、古河公方の主力であるの軍勢の主力である結城・宇都宮等の軍勢が帰陣したことから、古河公方も古河城へ帰陣の準備に入ったと考えるのが妥当と思われる。
同月24日上杉定正・太田道灌は河越城へ戻った。古河公方と上杉氏の和睦と長尾景春の問題は別であるとの見解から、太田道灌は長尾景春を討ち取る方針であった。
武蔵国・相模国に残っている景春党を一掃し、3月17日に成田陣(埼玉県熊谷市)と鉢形城を結ぶラインまで太田道灌の軍勢が進出したので、成田陣にいた長尾景春は秩父方面に逃走した。鉢形城に上杉顕定が入城し、山内上杉氏の武蔵国での拠点とした。


◎鎌倉大草子45の内容について疑問点
  • 豊島勘解由左衛門泰経が平塚城に籠もったと書かれているが、文明9年(1477年)4月28日石神井城落城時に三宝寺池に入水したとの伝承がありること。仮に生き延びたとしても、周囲を太田道灌の支配地域に囲まれ孤立無援の平塚城に立て籠もることは考えられない。
  • 小机城(神奈川県横浜市港北区)と丸子城(神奈川県川崎市中原区)は、平塚城のある東京都北区上中里からかなり離れた場所にある。長尾景春が小机城救援のために着陣した二宮の城は東京都あきる野市にあり小机城・丸子城と離れすぎている。
  • 羽生峰(埼玉県滑川町)に長尾景春・千葉孝胤が陣取って、太田資忠・上杉定正の軍勢と対峙したが一戦も交えず成田陣に撤退した。その後、大石駿河守が守る二宮城が降参し、4月10日に小机城が落城。相模国でも現在の神奈川県西北部の津久井湖周辺と思われる奥三保に逃げ込んだ長尾景春の残党が4月14日には掃討された。羽生峰での長尾景春・千葉孝胤の行動が、古河公方と上杉氏の和睦に反対し古河公方の帰陣を阻止しようとしたと伝えられ、長尾景春の有力与党である千葉孝胤を太田道灌が討伐する口実となったのであった。 逆に言えば太田道灌によって後の千葉孝胤討伐を正当化するために道灌状に意図的に書き加えられたものと考えられる。
  • 喜連川判鑑によれば文明10年(1478年)7月に長尾昌賢※の仲介で古河公方と上杉氏の和睦が成立し、古河公方足利成氏は7月17日に古河城に戻ったと書かれている。通常和睦が成立すれば速やかに帰陣するのが常識で、1月に和睦が成立したのに、長尾景春や千葉孝胤の反対で7月まで帰陣できないことは考えられない。又。長尾景春の乱において武蔵国での軍事行動をしなかった千葉孝胤が突如羽生峰で長尾景春との連合軍を編成するのも違和感がある。武蔵国では扇谷上杉家家が岩槻城・江戸城・河越城を拠点に勢力圏を確保しており、千葉孝胤が兵を率いて下総国の居城平山城(千葉県千葉市緑区)から羽生峰(埼玉県滑川町)まで行くことも戻ってくることも困難な状態だった。

※長尾昌賢 山内上杉家の家老。群馬医療福祉大学の沿革に学園の創始者としても紹介されている。長尾昌賢によって宝徳元年(1449年)に学問所を設置されたのが群馬医療福祉大学の発祥と記されており、古河公方と上杉氏の和睦を推進した実在の人物であったことが証明された。学問所は昌賢学園として社会福祉学部・介護学部・リハビリテーション学部を有する大学に発展しており、享徳の乱を終わらせることに貢献した徳が、今日の福祉・介護の人材創出につながっていると思われる。


◎鎌倉大草子45に対する考察

古河公方と上杉氏の和睦が成立したのは1月でなく7月と考えるのが妥当。
1月から和睦交渉の為に両軍が休戦状態の間に、太田道灌は武蔵国・相模国の小机城・丸子城・二宮城などを落城させ長尾景春に味方した残存勢力を一掃した。長尾景春は成田陣で古河公方とともに休戦を遵守していたので、何もすることができなかった。
古河公方と上杉氏の和睦に反対した千葉孝胤が羽生峰に布陣したという話は虚偽の事実であり、太田道灌が千葉孝胤討伐の正当性を主張するために捏造されたものである。
このようにして、太田道灌に都合良く書かれた鎌倉大草子を検証し他の資料・地図などと照合し上記の疑問点を調査した結果、古河公方と上杉氏との和睦開始から古河公方足利成氏の古河城への帰陣までの正しい経緯を次の通り述べることにする。

  • 文明9年(1477年)正月長尾景春蜂起し五十子陣を襲撃し崩壊させ、上杉勢は上野国に退却。
  • 同年7月劣勢となった長尾景春支援のため古河公方足利成氏が軍勢を率いて滝(群馬県高崎市)に陣を張った。その後上杉勢と古河公方の軍は上野国各地で対峙した。しかし決戦となることなく両軍は冬を迎えた。
  • このまま上野国で両軍が対立することで、山内上杉家の領国である上野国の支配力が弱まることを危惧した当主上杉顕定は、翌年正月に古河公方に対し和睦の使者を送った。古河公方もより有利な条件で和睦をするために和睦の交渉に入ることを受諾した。
  • 両軍は武力衝突を避けるため休戦することで合意し、古河公方の結城氏・宇都宮氏は帰陣した。古河公方と長尾景春の軍は武蔵国成田(埼玉県熊谷市)に陣を張った。成田が選ばれたのは、万一休戦が破られた場合に、古河城や鉢形城に逃げるのに都合の良い場所だったことが理由としてあげられる。上杉方も古河公方の安全を保証するため、上杉定正・太田道灌の軍を河越城に帰陣させた。
  • 休戦交渉が7月まで長期に及んだのは、古河公方がより有利な条件を上杉方から引き出すことを求めたことと、上杉氏が謀反人長尾景春について厳しい態度を崩さなかったことによる。休戦期間中に太田道灌が武蔵国・相模国の長尾景春方を掃討したことは、扇谷上杉家の勢力圏内での出来事でいずれも小規模な戦闘であったため休戦協定違反にはならなかったと考えられる。
  • 7月になり、山内上杉家の家老長尾昌賢の尽力により古河公方と上杉氏の和睦が成立した。これは上杉氏が古河公方と幕府との和睦の仲立ちを行う約束したことによるものである。和睦が成立しても長尾景春のことは別の問題とする上杉氏の方針は変わらなかったので、古河公方にとって長尾景春が古河城に戻る為の足かせとなってしまった。
  • 長尾景春が成田陣から鉢形城に戻る途中上杉方に殲滅されることを恐れたからである。簗田持助が太田道灌に長尾景春のことを相談をしたことから、太田道灌が長尾景春を秩父方面に逃げることを説得し、逃走させることに成功した。これにより、古河公方は古河城に7月17日に戻ることができた。
  • 太田道灌の尽力により、古河公方は味方した武将(長尾景春)を見殺しにしたとの汚名から逃れることができ、太田道灌との強い信頼関係を築くことができた。長尾景春は家臣とともに秩父方面へ無事脱出することができ、その後に起きた長享の乱でも活躍できる実力を温存することができた。太田道灌は山内上杉家当主上杉顕定に対して長尾景春を秩父方面に追払ったことを報告し、再び活動できないように鉢形城を居城とするように進言し顕定は進言を受け入れた。太田道灌によってすべてが丸く収まった。
   


 

- 長尾景春の乱・その5 -

   

千葉介孝胤は、先年、父の陸奥守入道常輝と共に故胤直兄弟に腹を切らせて成氏に奉公した人で、成氏から千葉の跡をたまわった人である。

 その後、上杉から、胤直の跡として実胤を千葉介に任じて下総に差し遣わしたが、成氏は孝胤を贔屓にしてこれを千葉に置かれたため、実胤は千葉城に入部することができず、武州石浜葛西のあたりを知行して時を待っていた。しかしやがて、世をはかなんで遁世し、濃州に上って閑居したため、上杉はその兄の自胤を取り立てて実胤の跡をたまわり、千葉介に任じた。これを武州の千葉という。

 このたび、千葉介孝胤は景春に味方してあちこちで合戦し、成氏が上杉と御和談されるのをしきりに妨げようとした。孝胤は、上杉の御敵の随一であった。

 そこで、これを退治して、自胤を取り立てて南総州の侍を自胤に付け、千葉の跡を相続させようと、成氏の内意を得て両上杉から加勢し、太田道灌が下総国府台に陣を取って、そこに仮の陣城を構えた。

 同十二月十日、孝胤は原二郎と木内を先手として下総国境根原に出陣した。道灌がこれに馳せ向かって合戦を始めた。一日中戦った末に孝胤は敗れ、木内・原以下、ことごとく討死した。残党は臼井の城に立て籠もった。

 明くる文明十一年(1479)正月十八日、臼井の城に押し寄せた。

 道灌は帰陣して、太田図書助と千葉自胤が両大将として攻め戦ったが、寄せ手は小勢だったため、攻め落とすことができなかった。管領の出馬を願ったが、これもすぐにはかなわなかった。敵城は要害堅固で、力攻めで落とすのは難しい様子であった。

 しかし、軍勢を分けて、上総国長南の城主、武田三河入道を攻めたところ、七月五日に降参して自胤に帰服した。丸ヶ谷の上総介も、同じく自胤に降参した。また、下総国飯沼も落城して、海上備中守師胤も、自胤に降参した。

 自胤は千葉へ入部することはなかったが、両総州の大半が自胤に帰服したため、「長陣したので、ひとまず帰陣しよう」と、七月十五日に陣払いをした。すると、その様子を見て、城方が城から切って出た。太田図書助資忠が取って返して攻め戦い、敵に付け入って攻め込んで、ついに城を攻め落とした。しかし、太田図書助をはじめ、僧中納言、佐藤五郎兵衛、桂縫殿助以下、五十三人が討死した。

 孝胤が敗れたものの、味方も長陣に疲れたため、それ以上は攻め入らず、自胤は陣払いして石浜に戻った。しかし、臼井城は自胤が領することとなって、臼井城には城代を置かれた。

 
  鎌倉大草子46の検証

◎鎌倉大草子46に書かれている内容

康正元年(1455年)千葉宗家の胤直・宣胤父子が馬加康胤・原胤房に攻められ自害したこと。そして胤直と同様に自害した胤直の弟賢胤の子である実胤・自胤兄弟が八幡莊に逃れた。康正2年(1456年)1月兄弟が籠もった市川城が梁田持助を将とする古河公方の軍に攻められ落城。兄弟は武蔵国に逃れ武蔵千葉氏が成立する。
文明10年(1478年)12月10日太田道灌は、20年以上前に下総国から逃れてきた千葉自胤を千葉氏の家督を継がせることを口実に下総国境根原(千葉県柏市光ヶ丘)において千葉孝胤と合戦となった。敗れた千葉孝胤の軍は臼井城に籠もったので、翌年正月太田道灌の軍は臼井城攻撃を開始する。攻囲戦は7月まで続いたが、臼井城の守りは堅かった。
太田道灌は帰陣して関東管領上杉顕定に援軍を率いて出馬を願ったが拒絶された。
援軍を願うほど厳しい状況だが、鎌倉大草子46では千葉自胤が上総武田氏を攻め降伏させ下総国・上総国の大半を帰服させたと記されている。(臼井城攻めに苦労し太田道灌が不在なのに、千葉自胤が別働隊を指揮して突如下総国・上総国の大半を帰服させたという話に違和感を感じる)

上総・下総両国の大半を帰服させたなら、臼井城と千葉孝胤の居城以外の大半を支配下にしたということである。武蔵国へ帰陣するために陣を引き払って退却を開始したというのは明らかに矛盾した行動である。
その後のことにも疑問を感じている。
千葉自胤が臼井城を攻め落としたことが事実なら、千葉自胤が臼井城を領し在城することによって、帰服した下総国・上総国に対して支配権を及ぼす行動に出るはずなのだ。しかし、千葉自胤は石浜城に帰陣してしまう。
千葉自胤が下総国・上総国の大半を帰服させたというのは、太田道灌によって捏造されたもので歴史的事実ではないという結論に達した。
鎌倉大草子は46で終わっており、作者が46を大田道灌状に基づき執筆したが、次に47を書こうとしたら多くの矛盾点に気づき執筆をやめたことも考えられる。

 
 
   ◎鎌倉大草子46を理解するための確認事項

★太田道灌の軍は下総国に侵攻した場所はどこか

「太田道灌が下総国府台に陣を取って、そこに仮の陣城を構えた。」と書かれているが、境根原合戦の起きた場所と離れている。太田道灌が国府台に陣所としたのは千葉孝胤の軍を撹乱させる作戦だったのではないか。
太田道灌の主力は現在の松戸市方面から下総国に侵攻し周辺の地域を制圧したため、国府台周辺に展開していた千葉孝胤の軍勢は慌てて境根原に向かい合戦となったと考えられる。長尾景春の乱を戦い抜いた太田道灌の軍は強く、千葉孝胤の軍に対して優位に展開したことが境根原合戦の勝因になったと確信している。
千葉大系図の千葉孝胤の欄に、太田道灌の軍勢に攻められた臼井城を救い、太田道灌と数ヶ月国府台で戦い敗退させたと書かれている。もしこのことが事実なら国府台は仮の陣所ではなく、当初から太田道灌の下総国における軍事拠点だった可能性もある。臼井城を救った千葉孝胤の軍勢は強く、太田道灌は国府台でも敗退するのであった。



★千葉孝胤の居城はどこか

鎌倉大草子45で千葉孝胤の居城は平山城(千葉市緑区平山)と述べたのは、妙見実録千集記に記されていることによる。
「千葉孝胤の代、文明十五年甲辰六月三日本佐倉城を居城とした」という内容のことが書かれ、岩橋輔胤・孝胤二代平山城を居城とし、長崎城を経て本佐倉城に移ったという内容のことも書かれている。
このことから、文明10年の頃は平山城が千葉孝胤の居城だったとされてきた。

しかし、妙見実録千集記には「文明年中古河公方足利成氏が古河城を退去し佐倉にて八ヶ月避難生活をした」という内容のことも記されている。
文明3年(1471年)上杉勢が古河城を包囲し、古河公方足利成氏が6月24日古河城を去って千葉孝胤のもとに避難し、翌年春に古河城に帰還することに成功した歴史的事実について書かれたものである。
千葉孝胤が居城である平山城から離れた佐倉を古河公方の居所とするのは考えにくい。もしかすると文明3年には本佐倉城が千葉孝胤の居城となっていたのではないだろうか。いずれにしても文明15年以前に千葉孝胤は平山城から本佐倉城に移っていた可能性が高いのではある。
下の地図を見ると、境根原合戦で勝った太田道灌が千葉孝胤を追って本佐倉城に向かったので、手前の臼井城での攻防戦となったとの結論になった。文章だけだと、境根原合戦で敗れた千葉孝胤が臼井城に逃げ込んだという印象になるが、境根原から臼井城まではかなり離れており、千葉孝胤は敗れた軍勢を立て直す為に居城に戻ったと考えるのが常識であろう。
臼井城に逃げ込んだのでなく、居城である本佐倉城に戻り軍勢を立て直し、本佐倉城防衛のための重要拠点である臼井城で太田道灌の軍勢を迎え撃ったと考えたい。


★文章の後半は千葉自胤を中心に書かれていることについて

文明11年(1479年)正月太田道灌の軍勢が臼井城攻撃を開始したが戦況は芳しくなかった。境根原合戦の千葉孝胤に勝利したことで下総国の多くの国人が太田道灌の軍に馳せ参じると見込んでいたが、20年に及ぶ下総千葉氏の権力基盤は安定しており期待外れとなってしまった。
そこで太田道灌が関東管領上杉顕定に援軍を率いて出陣の要請をするために帰陣し、留守を道灌の弟大田資忠と千葉自胤に任した。
しかし、上杉顕定が出陣の要請に応じなかったので、太田道灌の軍勢にとって戦局を打開する見込みが立たず、やむなく撤退に取りかかることになった。臼井城の城内から守備隊が飛び出し太田道灌の軍勢と戦闘になった。※
指揮官の大田資忠が討死するなど太田道灌の軍勢は劣勢であったが、もう一人の指揮官千葉自胤により危機を脱出し撤退に成功した。
太田道灌が不在で、大田資忠が城兵との戦闘で討死をしたので千葉自胤が指揮権を執ることになったことが主因である。
太田道灌の野望から始まった千葉孝胤討伐であるが、配下の武蔵千葉氏当主千葉自胤に下総国支配権を取り戻すことを大義名分としたにも係わらず、20年以上前に武蔵国へ去った千葉自胤のもとに多くの国人が馳せ参じることはなかった。
太田道灌状に千葉孝胤討伐が大成功だったように書かれ、「千葉自胤が下総国・上総国の大半を帰服させた」ということを捏造されたために、鎌倉大草子46に書かれている千葉自胤の行動は矛盾だらけになってしまった。
しかし、太田道灌が不在で城兵との戦闘で大田資忠が討死した危機的状況で、太田道灌の軍勢を指揮して撤退に成功した千葉自胤は立派な武将だと思う。浅井長政の裏切りで危機的状態になった時の織田信長の金ケ崎城からの撤退が評価されるように、千葉自胤の臼井城からの撤退も評価されるべきである。

※城内からの守備隊だけでなく千葉孝胤の援軍も到着し激戦となったため、大田資忠が討死するなど太田道灌の軍勢の痛手は大きくなったと考えられる。

 
 

 
   ◎太田道灌の野望と臼井城攻防戦

千葉孝胤が長尾景春と羽生峰にて陣取ったことは事実無根であり太田道灌による捏造されたものと既に述べた。古河公方が長尾景春を支援したことで、千葉孝胤が長尾景春を支援する立場になったのは事実である。しかし、両者の支配地域が離れており、協力して軍事行動を起こすことは不可能だった。それにもかかわらず、太田道灌が千葉孝胤討伐に踏み切ったのは、両総支配権の確保という野望を抱いたからである。扇谷上杉家が支配する武蔵国・相模国では主家を凌ぐ力を確保した太田道灌が次に下総国・上総国を狙ったのであった。
古河公方足利成氏にとって太田道灌は侮れない実力者であり、太田道灌の千葉孝胤討伐の要望に同意せざるを得なかった。
上杉顕定・上杉定正にとっては太田道灌と千葉孝胤が争うことでお互いが消耗することは望ましいことであった。両上杉からの加勢と書かれているが、扇谷上杉家に属している太田道灌配下の軍勢が主だったはずである。
しかし、大田道灌が千葉孝胤を圧倒し両総の支配権を確立することには両上杉家ともに反対で、上杉顕定は太田道灌からの出陣と援軍の要請に応じなかったのである。

太田道灌の野望から千葉孝胤討伐に踏み切り、配下の武蔵千葉氏当主千葉自胤に下総国支配権を取り戻すことを大義名分とした。長尾景春の乱を戦い抜いた太田道灌の軍勢は文明10年(1478)12月10日境根原合戦で千葉孝胤の軍を打ち負かした。
上記地図を見ていただければ、戦いに破れた千葉孝胤は居城である本佐倉城に撤退したことは明白だ。本佐倉城に戻り境根原合戦で敗れた自軍を立て直すことで手一杯だったはずである。何としても臼井城で太田道灌の軍勢を食い止め、本佐倉城に下総国から援軍・武器・食料を集め、いずれ来る決戦に備えねば
翌年正月千葉孝胤の後を追って、太田道灌の軍が臼井城に到着し半年にわたる臼井城攻防戦となったのである。

臼井城は臼井氏の居城で城を守っていたのは臼井氏の兵と千葉孝胤の援軍だったと思われる。当時の城主は臼井俊胤又は臼井持胤と言われている。
千葉孝胤が臼井城にいて指揮を執ったのか、本佐倉城にいて臼井城支援の軍を指揮したかは不明である。しかし、臼井城攻囲戦が半年に及んだので、本佐倉城には千葉孝胤の危機を救うために馳せ参じた一族や国人が集まり兵力も増強され、次第に太田道灌の軍勢との決戦に備えた準備ができつつあった。これに気づいた太田道灌の軍勢は帰陣の準備を始める。
臼井城から守備隊が飛び出したのは、本佐倉城からの援軍とともに太田道灌の軍勢を攻撃するためである。単独で攻めて撃退されるような自殺行為はしないはずである。
この段階で太田道灌の軍勢を指揮する千葉自胤にとって重要な責務は臼井城を落とすことでなく、いかに安全な場所まで最小限の被害で撤退することである。
千葉自胤はその責務を果たしたのである。境根原合戦の近くに前ヶ崎城(流山市)が地図に記されているが、後に文明16年11月3日に落城するまで太田道灌の弟六郎が城主だったことから、前ヶ崎城周辺まで撤退したと考えるのが妥当であろう。
千葉大系図の千葉孝胤の欄には、
「文明11年正月、太田道灌・二階堂某臼井城を攻める。父岩橋輔胤の命令により千葉孝胤大軍を率い城を救う。太田道灌の軍と国府台で数ヶ月の間戦い(道灌の軍を)武蔵国へ退去させる。」と記されており、内容的に一致する。
太田道灌が国府台で千葉孝胤の軍と戦ったのは、臼井城を攻撃していた千葉自胤が率いる軍を安全に撤退させるため、太田道灌自ら新たな軍を率いて国府台付近に展開したことによるものであろう。




臼井城趾の石碑


主郭側の空堀


大田資忠の墓


臼井城の主郭から眺めた印旛沼
◎臼井城落城後、武蔵千葉氏が両総の支配権を獲得したという歴史観を否定する根拠

一般に太田道灌状・鎌倉大草子に書かれていることを根拠に、「太田道灌の軍勢が臼井城を落城をさせ、臼井城は武蔵千葉氏の千葉自胤が領有し城代が置かれた。これにより両総は平定された。」と多くの歴史書で述べられている。
「武蔵千葉氏により両総が平定された」という歴史観は太田道灌により捏造されたものだが、その後、歴史的事実として受け止められて今日にいたっている。これを否定するのは勇気がいることだが、武蔵千葉氏・上総武田氏など当時の状況を調べるとそういう結論になってしまった。「武蔵千葉氏により両総が平定された」という歴史観を否定する根拠は下記の通りである。

●千葉孝胤の居城が本佐倉城であったとする根拠

☆太田道灌の軍勢が本佐倉城攻撃のために向かったのは地図上明白であり、本佐倉城近くの軍事上重要拠点である臼井城攻囲戦となった。

☆千葉孝胤の居城が平山城(千葉市緑区平山)ならば、太田道灌の軍勢は境根原合戦後直接平山城攻めに向かうはずである。平山城はかっての千葉宗家の居城亥鼻城(千葉市中央区亥鼻町)にも近く、臼井城攻めよりも平山城攻めの方が優先されはずなのだ。平山城攻めとならなかったのは千葉孝胤が居城を本佐倉城に移したのが原因と考えたい。

☆妙見実録千集記に文明15年(1483年)6月3日に千葉孝胤が本佐倉城に移り居城としたことが書かれていることを根拠に、文明10年12月の頃は千葉孝胤は平山城を居城としていたとされてきた。しかし、これら文書に書かれていることが常に正確とは限らないのである。同じ内容のことが千学集抄では文明16年(1484年)6月3日と記載されている。
更に千学集抄では文亀2年(1502年)~永正元年(1504年)古河公方足利政氏とその子高基が千葉孝胤退治のため小篠塚城(佐倉市小篠塚)に陣を張ったと書かれている。3年に及ぶ本佐倉城攻めならば、大規模な兵力の動員と補給路の確保など多くの問題を解決しなければならない。しかし、喜連川判鑑の足利政氏の欄には千葉孝胤退治のことは何も記載されていないのである。このように千学集抄に書かれていることが、総て正しいとは言えないのである。

☆千葉孝胤が本佐倉城を居城として下総国の支配権を確保したまま太田道灌の軍勢が帰陣したのは、千葉孝胤討伐が失敗した証拠である。本佐倉城は下記の絵図のように大規模な城郭で、廃城となるまで外敵により一度も攻め落とされることは無かった。


詳しくは本佐倉城歴史散歩





本佐倉城跡

 
   ●千葉自胤と千葉孝胤の関係は下総国の領有権を争う対立関係ではなかった

康正2年(1456年)1月千葉実胤・自胤兄弟が籠もった市川城が梁田持助を将とする古河公方の軍に攻められ落城。兄弟は武蔵国の石浜城に逃れた。この時に武蔵千葉氏が成立した。
石浜城は千葉氏がこの争乱が起こる以前より城主であった城なのである。今戸神社は昭和12年今戸八幡と白山神社が合祀されて今日に至っている。その白山神社は嘉吉元年(1441年)千葉介胤直が加賀国白山比咩神社から御祭神を石浜城内に勧請したものである。
千葉胤直の代には石浜城は千葉氏が領有していたのであった。

観応3年(1352年)南朝軍の新田義宗が上野国で挙兵、観応の擾乱で直義派だった上杉憲顕が南朝軍に味方し、2月28日武蔵国小手指原・入間河原で足利尊氏の軍と対峙した。この戦いで劣勢となった足利尊氏の軍は石浜城に撤退した。
石浜城にて態勢を整えた足利尊氏の軍は笛吹峠の戦いで勝利し、新田義宗を越後に、上杉憲顕を信濃に追払った。
当時の千葉氏当主だった千葉介氏胤は足利尊氏の勝利に貢献し、上総国守護職に補任された。
応仁武鑑によれば、「足利尊氏に随い又市川・葛西・石浜の荘を恩補せられ総て7600余町の地頭たりしに」と記されている。
7600余町の詳細は不明だが、同じ文章の中に下総市川荘1370余町・武蔵葛西1200町・武蔵石浜700町と書かれており、この他にも4000町以上の所領を千葉氏が有していた可能性が高い。

幕府は千葉実胤を正式に千葉介と認め、下総国を支配する岩橋輔胤・千葉孝胤親子に対抗させようとしたと伝わっている。
しかし、実際は対抗には程遠い状況であった。
千葉実胤が武蔵国にあった千葉氏の拠点である石浜城主となり弟の千葉自胤は新たに赤塚城を築城し城主となった。しかし武蔵千葉氏の武蔵国における経済的基盤は脆弱なもので千葉実胤は困窮した。市川城陥落で下総市川荘1370余町を失い、武蔵葛西1200町の領有は認められず、武蔵石浜700町のみ領有が認められたからである。
幕府や上杉氏は市川城が落城後、武蔵国に逃れた千葉実胤を千葉介として待遇したが武蔵国に新たな所領を与えることはなかったのである。このことが困窮の原因である。
千葉自胤が赤塚城主になっても、赤塚郷は鹿王院の所領で何らかの手数料収入を得られるだけであった。
寛正元年(1460年)将軍足利義政は堀越公方足利政知に対して千葉実胤の困窮の扶助を命じた。
寛正3年(1462年)扇谷上杉家の上杉持朝「雑説」事件に関連して、4月に千葉実胤が隠遁し、家督を弟の自胤に家督を譲った。
将軍足利義政の耳にも千葉実胤の隠遁の原因が困窮であることは伝わっており、堀越公方足利政知に対して千葉実胤の困窮の扶助を命じ、千葉実胤の隠遁撤回の働きかけをしたが、千葉実胤は応じることはなかった。

千葉自胤は家督を継承すると、赤塚郷を領主である鹿王院から押領するなど経済的基盤確立に努力している。
鹿王院は将軍足利義政に訴え、文明10年(1478年)押領の停止を命ずる文書を発しているが、千葉自胤が応じることはなかった。千葉自胤は武将としては有能な人物で長尾景春の乱では、太田道灌に従って武功をあげており、恩賞としてそれなりの所領を有することができるようになったはずである。

千葉孝胤が居城として本佐倉城の築城をして下総国の支配権を確立していたが、千葉自胤は現在の東京都台東区から板橋区にかけて散在する領地を有する豪族でしかなかった。二人の間では力の差があまりに大きくて、対立関係と呼べるものでなかった。


武蔵千葉氏のことは武蔵千葉氏の史跡を巡るる歴史散歩を参考にしていただきたい。

 
   ●上総武田氏を千葉自胤単独で攻めれる相手ではない

上総武田氏は、古河公方足利成氏の家臣武田信長が康生2年(1456年)に上総国に入部し支配権を確立した大名である。
文明11年(1479年)7月5日に千葉自胤に庁南城が降参したと鎌倉大草子46に書かれているが、事実ではないと断定できる。
武田信長は文明9年(1477年)に没したが、その後継者である庁南城主武田上総介信高・真里谷城主武田三河守信興が城主だったと考えられる。入部後20年以上過ぎ上総国の支配権を確立しそれなりの軍事力を有していたと考えられる。
庁南城は現在は巨大な木に覆われてしまっているが、当時は大規模な山城であったと考えられている。
臼井城を半年かけても攻め落とせなかった太田道灌の軍勢から分かれた千葉自胤の軍勢だけで容易に攻め落とせる城ではないのだ。庁南城主は代々上総介を称しているのに、真里谷城主の三河守と間違って三河入道と称しているなど、庁南城が降参した記述は虚偽である証拠である。

庁南城については庁南武田氏の史跡を巡る歴史散歩を参考にしていただきたい。

 
   

庁南城跡
 

庁南城内の大鞁森に続く道
 
   
以上のことから、千葉大系図の千葉孝胤の欄に記載の通り、臼井城を攻めた太田道灌の軍勢は千葉孝胤率いる援軍によって撃退された。千葉自胤が上総国の庁南武田氏・真里谷武田氏を降伏させたという鎌倉大草子46の記述は虚偽の事実であると断定できる。
 
 
 


 
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