千葉介孝胤は、先年、父の陸奥守入道常輝と共に故胤直兄弟に腹を切らせて成氏に奉公した人で、成氏から千葉の跡をたまわった人である。
その後、上杉から、胤直の跡として実胤を千葉介に任じて下総に差し遣わしたが、成氏は孝胤を贔屓にしてこれを千葉に置かれたため、実胤は千葉城に入部することができず、武州石浜葛西のあたりを知行して時を待っていた。しかしやがて、世をはかなんで遁世し、濃州に上って閑居したため、上杉はその兄の自胤を取り立てて実胤の跡をたまわり、千葉介に任じた。これを武州の千葉という。
このたび、千葉介孝胤は景春に味方してあちこちで合戦し、成氏が上杉と御和談されるのをしきりに妨げようとした。孝胤は、上杉の御敵の随一であった。
そこで、これを退治して、自胤を取り立てて南総州の侍を自胤に付け、千葉の跡を相続させようと、成氏の内意を得て両上杉から加勢し、太田道灌が下総国府台に陣を取って、そこに仮の陣城を構えた。
同十二月十日、孝胤は原二郎と木内を先手として下総国境根原に出陣した。道灌がこれに馳せ向かって合戦を始めた。一日中戦った末に孝胤は敗れ、木内・原以下、ことごとく討死した。残党は臼井の城に立て籠もった。
明くる文明十一年(1479)正月十八日、臼井の城に押し寄せた。
道灌は帰陣して、太田図書助と千葉自胤が両大将として攻め戦ったが、寄せ手は小勢だったため、攻め落とすことができなかった。管領の出馬を願ったが、これもすぐにはかなわなかった。敵城は要害堅固で、力攻めで落とすのは難しい様子であった。
しかし、軍勢を分けて、上総国長南の城主、武田三河入道を攻めたところ、七月五日に降参して自胤に帰服した。丸ヶ谷の上総介も、同じく自胤に降参した。また、下総国飯沼も落城して、海上備中守師胤も、自胤に降参した。
自胤は千葉へ入部することはなかったが、両総州の大半が自胤に帰服したため、「長陣したので、ひとまず帰陣しよう」と、七月十五日に陣払いをした。すると、その様子を見て、城方が城から切って出た。太田図書助資忠が取って返して攻め戦い、敵に付け入って攻め込んで、ついに城を攻め落とした。しかし、太田図書助をはじめ、僧中納言、佐藤五郎兵衛、桂縫殿助以下、五十三人が討死した。
孝胤が敗れたものの、味方も長陣に疲れたため、それ以上は攻め入らず、自胤は陣払いして石浜に戻った。しかし、臼井城は自胤が領することとなって、臼井城には城代を置かれた。
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