上総金田氏の歴史(歴代記)
家史そして生きた時代


 
 ◎上総金田氏歴代記は旗本金田氏家史研究会会員の活動と多くの歴史研究家の研究に基づき作成されました。


上総金田氏から三河金田氏へ
十曜星  三ツ星  三ツ輪違い
金田頼次・康常・成常・鏑木胤泰が使用した家紋
 
蕪木常泰から蕪木氏歴代が使用した家紋
金田常信が復姓後も正信まで使用
金田正興が三河国に移ってから使用した家紋
今日まで金田諸家の家紋として使用

旗本金田氏は金田正興を祖とする三河金田氏の系譜を引いている。江戸時代に金田正勝家3000石・金田正明家3000石を中心に金田諸家が徳川将軍家に仕えたことにより、寛永諸家系図伝・寛政重修諸家譜の中に金田氏系譜として記録として残っている。

金田正勝家の現当主金田正也氏によって、実父である故金田近二氏が研究した資料(上記金田氏系譜以外にも金田諸家の伝わる系譜・先祖書・過去帳などの多くの資料を調査)を中心に金田諸家の協力を得て「旗本金田氏家史研究」が平成16年に出版されました。
三河金田氏の祖金田正興は上総金田氏の系譜を引き、父は千葉県睦沢町にある勝見城主金田左衛門大夫信吉であります。
大永年中(1521年~1527年)に上総国から三河国に移り金田正興は三河国の大名松平氏に仕えたと寛政重修諸家譜には記載され、金田諸家の家譜や先祖書などでも伝わっております。そして江戸時代を通じて金田諸家は上記記載のとおり旗本として徳川家に仕えたのでありました。

次に上総金田氏について簡単に説明したいと思います。
上総金田氏は、平安時代の末期に鎌倉幕府創立の功労者上総広常の弟金田頼次を祖とする一族である。
上総広常が謀殺された時に金田頼次も拘束され間もなく病没したことになっています。その後広常の無実が判明し、頼次の嫡子康常に所領が返され御家人として復帰したということになっています。(実際は千葉常胤が取得した上総国の支配地域に移り千葉宗家とともに歩むことになります。)
しかし、金田康常の嫡子金田成常の代に鎌倉幕府の有力御家人三浦氏が滅亡した宝治合戦に巻き込まれ所領を失い、その子孫は金田姓でなく蕪木姓となって続くのでありました。
金田成常の子胤泰が叔父鏑木胤定の養子となり、鏑木氏は下総国鏑木城主として小田原の役まで千葉氏の重臣として続きました。その鏑木氏の分家として上総国蕪木城主となった蕪木常泰が蕪木氏を起こし、将来の金田氏復活を期したと千葉大系図に書かれております。
そして蕪木氏の系譜を引く蕪木常信によって、文明年中(1469年~1487年)に金田姓は復することになったと千葉大系図や金田系図に書かれていますが、真相については第六章で詳しく述べたいと思います。
金田信吉の代には勝見城主となり、その子金田正信の代には佐倉城主千葉介昌胤に娘を嫁がせ、千葉宗家の家督を継承した千葉介利胤及び千葉介胤富の母となるなど上総金田氏が輝いていた時代でありました。その金田正信の弟が三河金田氏の祖金田正興なのであります。

上総金田氏の研究をして「金田家歴代記」上・下及び「金田頼次の系譜を追う」などの本を出版されたのが山内玄人氏なのであります。
山内玄人氏の母親は德川家康の異父弟松平康元の家老金田宗房の子孫であります。山内玄人氏は母方に伝わる「金田系図」などを調査し、更に「千葉大系図」「吾妻鏡」など多くの資料を研究し、上総金田氏について多くの成果をあげたのでした。
三河金田氏について金田近二氏の研究によって多くのことが明文化され、上総金田氏についての山内玄人氏の研究などと合わせ、初代金田頼次より江戸時代の旗本金田氏に至るまで先祖が歩んできた歴史を詳しく知ることが出来るようになりました。
それでも、まだまだ解明しなければならない多くの事柄もあるのです。

旗本金田氏家史研究会では、上総金田氏の歴史(家史とその生きた時代)をホームページに載せることに致しました。
山内玄人氏の著書「金田家歴代記」上・下及び「金田頼次の系譜を追う」に書かれている内容を中心に、発刊されてから10年以上の歳月が経ったため、インターネットを通じて自治体や図書館によるデジタル図書などを閲覧することで、更に多くの情報を得て『上総金田氏の歴史【歴代記】』として開設することができました。何卒よろしくお願い申し上げます。


 
 第一章  金田頼次とその時代
 ページへ進む
   金田頼次について父祖・兄弟・源氏との関係などを詳しく記載。兄上総広常について吾妻鏡の記述を検証することで真実を追究する。
     
   
 第二章   鎌倉時代の上総金田氏 ページへ進む
  
金田頼次の嫡子金田康常について、千葉宗家との関係を検証する。その子金田成常は宝治合戦に巻き込まれ所領   を失って、成常の嫡子胤泰が母方の鏑木胤定の養子になる。鏑木氏が原氏・木内氏・円城寺氏とともに千葉四天王と呼   ばれ、千葉宗家のなかで重要な家柄となれたのは鏑木胤泰の母方の祖父白井胤時の存在があったからであった。
   
   第三章   鎌倉幕府の滅亡と南北朝の動乱 
  
鎌倉幕府が滅亡し建武の新政が始まる。しかし、建武の新政は2年で破綻し後醍醐天皇と足利尊氏の対立が南北朝の動乱となり、室町幕府内の対立が観応の擾乱(じょうらん)へと日本中での争いが続くのであった。千葉宗家がいかに困難な時代を乗り切ったか検証する。蕪木氏出身で円城寺氏の養子となった円城寺貞政の活躍により、千葉介氏胤の代に上総国守護に補任されたことを特記事項として記述している。
   
   第四章   関東の争乱 
  
小山義政の乱・上杉禅秀の乱・永享の乱・結城合戦など関東で起きた争乱を記載。いずれも鎌倉公方が権力志向で対立が生じ争乱となったもの。下野国の有力大名小山氏との対立が小山義政の乱。関東管領犬懸上杉家との対立が上杉禅秀の乱。幕府・関東管領山内上杉家との対立そして鎌倉公方足利持氏が自害に追い込まれたのが永享の乱。亡き足利持氏を慕う武士たちが結城城に集まり、持氏の遺児を奉じて幕府軍と戦ったのが結城合戦。将軍足利義教が暗殺される事件が起きると、鎌倉府再興の動きによって鎌倉公方に足利成氏が就任するのであった。
   
   第五章   古河公方と享徳の乱  
  古河公方足利成氏と幕府・上杉氏の約30年にわたる戦乱である享徳の乱を前期・中期・後期にわけてそれぞれの時期の出来事を記載。千葉宗家が古河公方派と幕府・上杉氏派に分かれ争ったが、佐倉城を居城とした千葉介孝胤は下総国に攻めんだ太田道灌を臼井城の戦いで撃退した。しかし太田道灌が自分に都合良く述べた資料によって書かれた鎌倉大草子の内容が世の中に広まった為、太田道灌の軍が下総国の大半を支配したように伝わってしまった。
   
 第六章   上総武田氏と上総金田氏 
  甲斐武田氏出身の武田信長が上総国を支配することになるが、上総武田氏は庁南武田氏と真里谷武田氏に分かれて統治する。上総金田氏は庁南武田氏と密接な関係になり、千葉宗家と庁南武田氏の同盟関係に貢献する。しかし、そのことが真里谷武田氏の憎しみを受けることになり、上総金田氏終焉の原因となるのであった。
 
    第七章  上総金田氏の終焉 
  後の小弓公方足利義明を擁立した真里谷武田氏・安房里見氏による庁南城・小弓城攻撃。庁南城が落城すると真里谷信勝によって金田正信は自害させられた。弟の金田正興は関東から追放され、三河に移る。上総金田氏は終焉を迎える。
   
   第八章  三河金田氏(特別編) 工事中
     金田正興・正頼親子はは関東から追放され、三河に移った。当時の三河国と松平氏を検証することで、三河金田氏初期の謎の部分に迫る。三河国の弱小大名だった松平氏の飛躍に三河金田氏がいかに貢献したかを子孫である今日の金田諸家に伝えるために特別編として作成する。
   

◎上総金田氏ゆかりの史蹟を訪ねる歴史散歩  
    金田頼次ゆかりの勝見城・金田郷、上総金田氏に重大な影響を及ぼした千葉宗家の史跡や古河公方の史跡などを巡ってきました。

上総金田氏を語るには、前期・中期・後期に区分して語るのが理解しやすい。
●上総広常の弟金田頼次から宝治合戦で金田成常が所領を失うまでを前期。
●金田成常の子胤泰が鏑木氏の養子になり、胤泰の子常泰が蕪木城を居城として蕪木氏を名乗った期間を中期。
●文明年中に蕪木常信が金田姓に復帰し、大永年中に金田正興が三河に移り三河金田氏になるまでを後期。


上総金田氏前期では、兄上総広常の真実に迫りました。

☆上総金田氏中期では、鎌倉時代の終わり・南北朝時代・室町時代における東国の争乱と蕪木氏が仕えた千葉宗家の盛衰を記載しました。

☆上総金田氏後期では、戦国時代の始まりとの説もある享徳の乱が始まり、上総武田氏と上総金田氏との深い繋がりを中心に記載しました。
 


 
 

参考文献

金田近二著 金田正也編   「旗本金田氏家史研究」

山内玄人著         「金田家歴代記上・下」「金田頼次の系譜を追う」

神奈川歴史研究会著     「さがみの風」

福田豊彦著         「千葉常胤」

杉山一弥著         「室町幕府の東国政策」

水野大樹著         「図解感応の擾乱と南北朝動乱」

水野大樹著         「享徳の乱と長享の乱」

小国浩寿著         「鎌倉府と室町幕府」

則竹雄一著         「古河公方と伊勢宗瑞」

佐藤博信編         「戦国遺文 古河公方編」

板橋区郷土資料館     「武蔵千葉氏」

金田諸家系図・寛政重修諸家譜千葉大系図・保元物語・平治物語・三河物語その他

インターネット上で公開されているデジタル資料
吾妻鏡を読む、源平盛衰記、玉葉、神代本千葉系図、上総武田氏系図、里見系図その他




今年3月に生まれたムササビの家族写真を縁起がいいので掲載しました。ムササビ一家が金田家の家紋のように親子3匹そろっての写真です。
 
◎旗本金田氏家史研究会会員の金田芳明は現在神奈川県南足柄市に住んでいます。南足柄市には天狗伝説で有名な最乗寺が道了尊として多くの信者から信仰されています。最乗寺は曹洞宗でも格の高い寺院であることから、南足柄市内には多くの曹洞宗寺院が存在しています。

自宅のある周辺は現在分譲地となっていますが、かっては笹子山と呼ばれる修験道の聖地でありました。近所にある笹子地蔵は鎌倉時代から地元の人々から信仰されていた由緒ある自然石のお地蔵様です。金田家の菩提寺となっている東京巣鴨の高岩寺(とげぬき地蔵の方が有名)とともにお地蔵様を金田芳明は信仰してきたので、今日まで無事に過ごせたと笹子地蔵には感謝しています。
笹子地蔵周辺には石垣などから、かっては修験道の寺院の建物が存在したと思われます。しかし、明治時代の廃仏毀釈・修験道廃止令で破却されたようなのです。現在は分譲した不動産会社が建てた地蔵堂があるのでお参りはできますし、分譲地の有志が維持管理に努めています。

金田家(他の一族の方も同様と思われます)がお地蔵様のご加護を受けてこれたのも、徳川家康の生母伝通院(於大の方)がお地蔵様を信仰してきたことが大きく影響していると考えています。
於大の方は金田正祐・金田正房が徳川家のために忠死したことを悲しみ、家康に対してそのことを忘れないように働きかけました。そして家康の弟松平康元の家老に金田宗房をするように家康に働きかけ認めさせたのです。しかし、徳川家康が武田信玄に三方ヶ原の戦いで敗れた時に、武田兵に囲まれ討ち取られる寸前の主君松平康元を金田宗房は救出し、自らは身代わりとなって武田兵に討ち取られました。
そのことを知った於大の方の驚きと悲しみは想像を絶します。そして松平康元に対して子孫代々まで金田宗房の忠死を忘れないようように申し出、松平康元とその子孫は母との約束を守り続けました。このように徳川家康の生母である於大の方は金田家の先祖たちを最も大事に思ってくれた方なのです。そして、於大の方のお地蔵様に対する篤い信仰が、今日までお地蔵様のご加護を金田諸家が受けていられるように感じています。

笹子地蔵には最乗寺と同様に修験道の聖地として鎌倉時代から伝わる天狗伝説が残っています。

「当時悪霊に支配されたニホンオオカミが笹子山周辺の人々を苦しめていました。人々を救うために金毘羅大権現の分身である黄色大権現が現れ、恐ろしいニホンオオカミを気絶させ笹子地蔵のある場所まで運び、オオカミを石に変えてしまいました。
役目を果たした黄色大権現は天狗の姿となって金色の光を放ちがら空高く飛んでいきました。」

その天狗伝説を知った金田芳明が、天狗の姿をしたと伝わっている金毘羅大権現を信仰するようになってから不思議なことが起こりました。
我家のベランダにムササビが来て住みつくようになったのです。今考えると天狗とムササビは空を飛ぶことと、自然が大切に守られている場所しか住めないことが共通しています。そこでムササビを天狗(金毘羅大権現)の使いとして大切に守ってきました。
ムササビは法律で守られた保護獣です。危害を加えることも餌をあげることも許されません。ムササビを大切に守るということは、ムササビが安心して暮らせるように自分たちの生活を我慢することなのです。
その結果、去年・今年とムササビの子育てが無事終了し、親子ともに森へと旅立っていきました。
上の写真は平成の最後の日(4月30日)に親子で撮った家族の記念写真です。ムササビは夜行性の動物のため昼は巣で寝ています。そのため昼間に写真を撮るのは難しいのです。たまたま撮れた貴重な写真なのです。尻尾を丸くすることで輪を表現し3匹の顔により金田氏の家紋三ツ輪違いを表してるのは、きっと天狗(黄色大権現)様の粋な計らいなのかもしれません。
今では子供ムササビの1匹(写真左側)が無事成長しベランダに戻ってきて新しい生活を始めています。(令和元年7月末現在)

 
 
戻る