上総金田氏の歴史(歴代記)
 

   

 
 
第二章  鎌倉時代の上総金田氏 その2
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第一章 第三章 第四章 第五章 第六章 第七章 第八章
 
 鎌倉時代の上総金田氏は千葉宗家の配下として生き残ることができた。金田成常の代に宝治合戦によって所領を失ったが、金田成常の子胤泰は伯父鏑木胤定の養子となり家督を継ぎ鏑木胤泰となる。鏑木氏は千葉宗家の重臣として戦国時代まで生き残るのであった。
鏑木氏の分家として上総国蕪木郷に自立したのが蕪木常泰であった。蕪木常泰の子孫が文明年中(1469年~1487年)金田姓に復することになるのであるがそれまでは蕪木氏と称した。上総金田氏は金田頼次を初代とし蕪木氏の時期も含め、更に金田姓に復し大永年中(1521年~1527年)に金田正興が三河に移るまでの総称である。
下総国を支配する千葉宗家にとって上総国は重要な隣国であり、重臣鏑木氏から蕪木常泰を分家として自立させたのも何か重要な政治的判断があったと考えられる。


 
金田頼次 金田康常 金田成常 鏑木胤泰 鏑木家胤    
(千葉大系図では盛常)    
蕪木常泰  ┬  蕪木常時
   
                   └ 円城寺貞政 

 
(5)鏑木胤泰

金田成常の子。母方の伯父鏑木胤定の養子となり下総国鏑木城主として千葉宗家とともに歩むことになる。その後、鏑木氏は千葉宗家の重臣として原氏・円城寺氏・木内氏とともに「千葉四天王」と呼ばれ、豊臣秀吉の小田原征伐により鏑木氏が鏑木城を明け渡すまで代々続くのであった。
上記系図は上総金田氏としての鏑木胤泰までの系図だが、千葉大系図によって千葉常胤からの系図を作成すると次のようになる。

鏑木胤泰が鏑木氏の家督を継いだことを当然のように書かれていることが多く、金田成常の子が鏑木胤定の養子になったことに言及して説明しているのは少数派である。
鏑木胤定には定氏・行定・胤國という実子がいたにもかかわらず、白井胤時にとって外孫である胤泰を鏑木胤定の養子にさせ鏑木氏の家督を継がせたことは異例なのである。白井胤時が外孫の鏑木胤泰を自分の後継者としたことを考えると、、鏑木胤泰の直系である蕪木氏につながる金田一族も白井胤時をご先祖様と考えるべきなのかもしれない。

 
➀千葉常胤 ②千葉胤政 ③千葉成胤 ④千葉胤綱 【千葉宗家】
                   
           └ ⑤千葉時胤  ―  ⑥千葉頼胤 (幼名 亀若丸)
千葉常秀 千葉秀胤 【上総千葉氏】
      白井胤時  鏑木胤定 鏑木胤泰(養子) 
                   
           白井信清      
                 
 
白井胤時は宝治合戦で滅亡した千葉秀胤に連座して所領(白井荘又は香取郡白井郷)を失い蟄居した。鏑木胤定の弟白井信清は金田成常の所領だった上総国長柄郡を所領としたことを指摘して、白井氏と金田氏の所領の交換だったのではという意見がある。三浦氏とつながりのある金田姓ではまずいので、鏑木胤定の養子とすることで鏑木姓となったという意見である。
実は宝治合戦を調べると金田成常は所領と命をともに失っていた可能性が高いのであった。千葉氏も三浦氏と同様に北条時頼によって滅ぼされようとしていた。
千葉氏の滅亡を回避するとともに金田成常が千葉秀胤に連座して殺されることから救ったのが白井胤時だったのである。
次に宝治合戦と白井胤時について検証することにする。


(6)宝治合戦の検証

 

 
宝治元年(1247年)   6月5日 三浦一族頼朝の墓所法華堂にて自害し滅ぶ 
同年  6月6日 三浦泰村の妹婿千葉秀胤追討の命令が発せられる。 
 同年  6月7日 大須賀胤氏・東胤行 率いる追討軍が到着すると、千葉秀胤とその一族が居城である大柳館に火を放ち自害して果てた。猛火の為、追討軍は近づくことも困難であった。
     


 
  • 宝治合戦で戦死又は自害して亡くなった御家人

    若狭の前司三浦泰村      同 子息次郎景村   同 駒石丸
    能登の前司三浦光村      同 子息駒王丸    
    駿河式部三郎           駿河五郎左衛門の尉     同 弟九郎重村    
    三浦又太郎式部大夫氏村   同 次郎    同 三郎    三浦の三郎員村
    毛利蔵人大夫入道西阿(戦国大名毛利氏出身の一族)    同 子息兵衛大夫光廣   毛利次郎蔵人入道   
    毛利三郎蔵人       同 子息吉祥丸    
    大隅の前司重隆      同 子息太郎左衛門の尉重村   同次郎       
    平判官太郎左衛門の尉義有    同 次郎高義        同 四郎胤泰     同 次郎
    高井兵衛次郎實茂     同 子息三郎     同 四郎太郎
    佐原十郎左衛門の尉泰連  同 次郎信連     同 三郎秀連   同 四郎兵衛の尉光連    同 六郎政連     同 七郎光兼    同  十郎頼連        
    肥前太郎左衛門の尉胤家    同  四郎左衛門の尉光連    同  六郎泰家        
    佐原七郎左衛門太郎泰連   長江次郎左衛門の尉義重    下総の三郎   佐貫次郎兵衛の尉  
    稲毛左衛門の尉    同 十郎          
    臼井の太郎(千葉氏一族臼井氏)     同 次郎
    波多野六郎左衛門の尉   同 七郎       
    宇都宮美作の前司時綱   同 子息掃部の助   同 五郎       
    春日部甲斐の前司實景   同 子息太郎      同 次郎       同 三郎
    関左衛門の尉政泰    同 子息四郎     同 五郎左衛門の尉
    能登左衛門大夫仲氏    宮内左衛門の尉公重   同 太郎
    弾正左衛門の尉      同弟 十郎      
    多々良次郎左衛門の尉   石田大炊の助       
    印東の太郎(上総広常の兄伊西常景の子孫である印東氏)     同 子息次郎   同 三郎          
    平塚左衛門の尉光廣  同子息 太郎     同 小次郎     同 三郎    同 土用左兵衛の尉   同 五郎 得富の小太郎    遠藤太郎左衛門の尉  遠藤次郎左衛門の尉     
    佐野左衛門の尉   同子息 太郎   佐野の小五郎       
    榛谷の四郎     同子息 彌四郎   同 五郎     同 六郎  
    白河判官代   同弟 七郎         同 八郎       同 式部の丞
    上総権の介秀胤      同子息 式部大夫時秀 同 修理の亮政秀  同 五郎左衛門の尉泰秀   同 六郎秀景垣生の次郎時常 (秀胤の弟、千葉大系図では埴生時常)
    武左衛門の尉       同 一族       
    長尾平内左衛門の尉景茂(戦国大名上杉謙信となった長尾景虎出身の一族)    
    長尾新左衛門の尉定村   同 三郎為村    同 次郎左衛門の尉胤景   同 三郎左衛門の尉光景   
    長尾次郎兵衛の尉為景   同 新左衛門四郎
    秋庭の又次郎信村     岡本次郎兵衛の尉  同子息次郎
    橘大膳の亮惟廣      同子息 左近大夫   同弟 橘蔵人
  • 宝治合戦で行方不明になった御家人
    駿河式部大夫三浦家村
      
  • 宝治合戦で生虜になった御家人
    駿河八郎左衛門の尉胤村(出家) 金持次郎左衛門の尉 毛利文殊丸
    豊田太郎兵衛の尉     同次郎兵衛の尉      長尾次郎兵衛の尉
    美濃左近大夫将監時秀   大須賀八郎左衛門の尉 (千葉常胤の子大須賀胤信を祖とする大須賀氏)
      
  • 宝治合戦で逐電 した御家人
    小笠原の七郎   大須賀七郎左衛門の尉(千葉常胤の子大須賀胤信を祖とする大須賀氏)   土方右衛門次郎

 宝治合戦で特筆するべきことは短期間で決着し、執権北条氏に対抗できる御家人が一網打尽で滅ぼされてしまったことである。
大江広元の子孫毛利氏や坂東八平氏に数えられる長尾氏までもが三浦氏とともに一族の大半が自害または殺害されたのであった。
執権北条時頼は三浦氏との和平に尽力したが、三浦氏と北条氏の主戦派によって6月4日に開戦となり6月5日に三浦氏は滅ぼされたとなっている。
しかし、わずか半月の間に上記記載の有力御家人を迅速にそして計画的に滅ぼすには巧妙な謀略なしではできるはずがない。
有力御家人である千葉氏も千葉秀胤の巻き添えで滅ぼされた危険性は高かったはずである。次に宝治合戦に対して千葉宗家はどのように対応したか検証してみたい。



 (7)宝治合戦に対する千葉宗家の対応

当時の千葉氏当主亀若丸(後の千葉介頼胤)が幼かった為、後見として一族の中から下記の者が選ばれていた。
 相馬胤継  相馬胤村  武石朝胤  武石胤氏  大須賀重信  大須賀為信 国分重常   国分胤長  東胤行  木内胤家
                   
 千葉秀胤  白井胤時  千葉泰胤  海上胤有  千葉師時  粟飯原常行  臼井太郎  椎名胤継  その他  
                   


千葉宗家の当主は千葉常胤から数えて6代目にあたるが、4代千葉胤綱は建保6年(1218年)11歳で家督を継ぎ安貞2年(1228年)21歳で亡くなった。5代千葉時胤は兄胤綱に子がなかったので兄の養子となって11歳で家督を継いだ。仁治2年1241年千葉時胤が24歳で亡くなったので3歳の亀若丸が千葉氏当主となった。後見人のうち千葉泰胤は3代千葉成胤の子で亡くなった胤綱・時胤と兄弟でしかも成人していることを考えると、千葉氏当主になれなかったのが不思議である。千葉泰胤は謎の人物と言える。千葉秀胤が寛文2年(1244年)に幕府評定衆に任命され後見人の中で最大の実力者となった。しかし、寛文4年(1246年)に宮騒動によって評定衆から外され所領の一部を失い失脚したため、後見人からも外されていたはずである。その後は3代千葉成胤の弟で一族の長老である白井胤時が後見人の中で存在感をあることから指導力を発揮できたと考えられる。
白井胤時が指導力を発揮し千葉氏を滅亡する危機から救った。それが宝治元年(1247年)におきた宝治合戦なのだ。
6月4日に三浦氏と北条氏の戦いが始まり、6月5日に三浦一族が滅亡。6月6日に三浦氏と縁戚関係がある千葉秀胤追討令が発令。6月7日には千葉秀胤とその一族が自害し居館に火を放った。
今日のように交通・情報の発達した社会でも、三浦一族が滅亡した情報を得て追討軍を準備して派遣するのに相当の日数を要するのである。
追討令を受け一族で協議しぐずぐずしていると、千葉秀胤に連座して千葉一族までもが謀反の疑いをかけられることになる。
後見人のうち臼井太郎は上記の亡くなった御家人に含まれている。蓄電した御家人大須賀七郎左衛門の尉とは後見人である大須賀重信のことだ。
上総一族にあたる印東氏も亡くなった御家人に含まれていることから、勝見城主だった金田成常も同様の運命になる可能性が大だったのである。

この危機を追討令を受けた当日に千葉宗家から追討軍を派遣し、翌日には千葉秀胤とその一族を自害させることができた。
よく考えると多くの疑問を感じざるを得ない。
①三浦一族が滅ぼされた連絡と千葉秀胤追討令を受けた当日に、追討軍を編成・十分な武器兵員を確保・作戦計画そして出発を何故行えたのか。
②追討軍を指揮した大須賀胤氏は大須賀重信の甥、東胤行は千葉秀胤の三男泰秀の義父を任命したのも不思議だ。追討を受ける人たちの近親者が追討軍の武将となっているのだ。
③千葉秀胤とその一族は追討軍の到着を待って、大柳館の四方に薪炭を積み上げて火を放ち炎のなかで自害し果てたのだ。
すべてが迅速に巧妙に計画的に行われたのであった。

このようにして滅亡の危機から千葉宗家を救い金田成常の命を救えたのが白井胤時の知恵だったのではないだろうか。
〇事前に三浦氏の滅亡を予測。
〇三浦氏を滅亡させた北条氏が次に滅ぼすのは千葉氏と推測。三浦氏と縁戚関係のある千葉秀胤などが攻撃対象になると判断。
〇千葉秀胤の巻き添えで千葉宗家も滅ぼされると判断。

このような予測をする一方、巧妙な対策が考えられた。
◇千葉秀胤に対する追討令が発せられたら千葉宗家から直ちに追討軍を派遣できるように準備をしておく。
◇千葉秀胤に対して軍事衝突を避けるための説得工作。

そのために入念な事前準備が行われた。
金田成常に対しては祖母が三浦氏の出だという事を理由に、領地没収の命令を出す。
義理の息子なので白井胤時が本音で説得すれば応じてもらえる。

白井胤時・金田成常が千葉秀胤を大柳館で説得をすると同時に、女子供などの救出なども練られた。
☆三浦氏の滅亡が避けられないこと。
☆千葉秀胤など千葉氏の一部の対しても追討令が発せられ、対応を誤ると千葉宗家も滅ぼされる危険性が高いこと。
☆千葉宗家が追討軍を派遣することを理解してもらい、同士討ちを避けるため追討軍の武将の人選を協議。
☆女子供などを勝見城に移し、金田成常が勝見城を千葉宗家に引き渡す時にそのまま千葉宗家の館へ連れていく。(人質という名目で女子供の安全を確保)
などを申し出て理解してもらうよう努力したのだろう。
千葉秀胤も宮騒動で失脚し、いずれ執権北条時頼によって滅ぼされるのではという予感はしていたのだろう。
追討軍が到着したら大柳館に火をつけ華々しく自害する覚悟を決めるのであった。

これらはあくまで推理であるが、入念な事前準備があったことで三浦氏の滅亡後2日で上総千葉氏滅亡となったと考えたい。
執権北条時頼も追討令が発せられた翌日には上総千葉氏を千葉宗家が滅ぼしたことに驚いたろう。
更に千葉宗家が上総千葉氏の滅亡に連座して金田成常の所領を没収、その義父白井胤時の所領も没収ということでそれ以上の追及を回避した。
白井胤時のような知恵者がいたことで千葉氏は残ることができ、知恵者がいなかった三浦氏は滅亡したのであった。


 
 
 
 
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