第三章 鎌倉幕府の滅亡と南北朝動乱 その2 ❶ ❷ ❸
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元弘3年(1333年)鎌倉幕府が滅亡し建武の新政が始まる。しかし、建武の新政は2年で破綻し後醍醐天皇と足利尊氏が対立するようになる。そして、南北朝の動乱となり、観応の擾乱(じょうらん)を経て明徳3年/元中9年(1392年)南朝の後亀山天皇が北朝の後小松天皇に三種の神器を譲って退位したことで実現した南北合一まで日本中が南朝側・北朝側となって争いが続くのである。
建武の新政が始まることは千葉宗家は千葉介貞胤の代で、その後南朝側の武将として後醍醐天皇に仕えた。しかし、建武3年/延元元年(1336年)に北国街道を金ケ崎城を目指して進む途中の木の芽峠で吹雪に会い足利方に降伏した。その後は足利尊氏が開いた室町幕府に仕え、氏胤・満胤へと家督が継承されたのあった。蕪木常泰の嫡子蕪木常時は千葉大系図に鎌倉攻めで戦功を挙げたことが書かれており、その後も千葉介貞胤に従って戦ったと思われる。特筆するのは蕪木常時の弟が円城寺氏の養子となり円城寺貞政となったことである。
観応2年/正平6年(1351年)千葉介貞胤が京都で亡くなり、当時15歳だった千葉介氏胤を円城寺貞政が補佐し実績を上げたのであった。円城寺貞政とその子たちは千葉宗家の重臣として千葉大系図に明記されている。
第三章では千葉宗家の家臣として蕪木氏歴代が生きた動乱の時代について、千葉介貞胤や円城寺貞政を中心に述べていきたい。 |
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蕪木常泰 |
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蕪木常時 |
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蕪木常頼 |
― |
蕪木常成 |
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└ |
円城寺図書允貞政 |
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円城寺駿河守 常? |
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円城寺式部丞常忠 |
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円城寺下野守 |
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円城寺駿河守 |
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└ |
円城寺七郎貞晴 |
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(5)粟飯原氏光と円城寺貞政
千葉貞胤についてその人生と生きた時代を述べてきた。京都にいて不在だった千葉介貞胤の留守を守ったのが、弟の粟飯原氏光であったことは既に述べた。千葉貞胤が亡くなり15歳で千葉氏胤が家督を継承すると、円城寺貞政がよく補佐したことが千葉大系図に書かれている。貞治4年/正平20年(1365年)千葉氏胤が29歳で亡くなった時の家臣として、円城寺氏・木内氏・鏑木氏・中村氏・内山氏・深志氏・多田氏・山河氏・内記氏・河戸氏等と記載され、円城寺氏が家臣の一番目に記載されている。
後の千葉宗家の筆頭重臣として有名な原氏はこの時期には家臣の欄にも記載されていない。下記系図を見ていただければ明らかなように、千葉介兼胤の弟である原胤高を祖とする原氏が筆頭家老として千葉宗家をも凌ぐほど権勢をふるうようになっていく。平安時代末期に房総平氏の一族として分かれた原氏と原胤高を祖とする原氏は全くの別物と考えた方が賢明なのかもしれない。
粟飯原氏光の嫡子清胤は一族の筆頭として千葉氏胤を補佐し、孫の詮胤は千葉満胤の一族の欄に筆頭として書かれている。
千葉氏胤・満胤の代では、粟飯原氏が一族の筆頭、円城寺氏が家臣の筆頭という立場であった。
粟飯原氏や円城寺氏については次項で検証することとして、千葉介氏胤の妻について述べたい。Wikipediaでは新田義貞の娘と書かれているが、千葉氏胤の子であり後に僧となった聖聡の母親が新田義貞の娘と千葉大系図で書かれていることによるものと思われる。新田義貞が戦死したのは1338年、千葉氏胤が生まれたのが1337年。年齢的に釣り合わないのである。更に聖聡が生まれたのは1366年。千葉氏胤が29歳で亡くなった翌年である。全てがミステリーなのである。
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千葉頼胤 |
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千葉宗胤 |
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千葉胤貞 |
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千葉胤泰 |
【兄胤貞の養子になり九州千葉氏 の祖となる】 |
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千葉胤宗 |
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千葉貞胤 |
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千葉一胤 |
建武3年(1336年) 三井寺の合戦で戦死 |
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千葉氏胤 |
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千葉満胤 |
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千葉兼胤 |
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原胤高 |
【筆頭重臣原氏祖 】 |
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粟飯原氏光 |
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粟飯原清胤 |
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(6)粟飯原氏を検証
粟飯原氏光は粟飯原常光の家督を継承し、千葉胤貞の所領(千田荘)を加増されたことが千葉大系図に書かれている。正和5年(1316年)千葉胤貞が九州に下向するまで、千葉宗家の家督争いが行われたので、その時に取得したしたものと思われる。
建武の新政が始まり千葉介貞胤は上京し下総国を留守にしており、家督争いのしこりが残っていた下総国を粟飯原氏光がうまく治めたと考えられる。
建武2年(1335年)北条時行の挙兵し中先代の乱がおき、朝廷の許可を得ず足利尊氏が関東に下向すると、足利尊氏と後醍醐天皇の対立が鮮明になり後の南北朝の動乱へとエスカレートしていく。
粟飯原氏光は関東の多くの有力者の支持を得た足利尊氏の陣営に加わった。千葉介貞胤が南朝方なのに粟飯原氏光が北朝方になったのは、このような事情からである。
粟飯原氏光が足利尊氏から偏諱を与えられたことからも、その貢献度が大きかったからである。
次に粟飯原氏について述べたい。粟飯原氏は千葉常胤の祖父千葉常兼の弟鴨根常房の子粟飯原常基を祖とする。粟飯原朝秀の子信秀・正秀・秀久が和田合戦で討たれ、粟飯原氏は一旦滅亡する。その後千葉介胤政の子寛秀によって粟飯原氏は再興された。千葉大系図に粟飯原朝秀が小見川城を居城としたことが書かれ、更に粟飯原常行が千田荘を加増されたと書かれている。このことから、千田荘は千田氏や粟飯原氏等によって分割されていたと考えられる。粟飯原氏については下記系図を参考にしていただきたい。
次に粟飯原氏光については、建武5年/延元3年(1337年)4月新田義貞が金ケ崎城を奪回すると、それに激怒した足利直義の命を受け、当時捕らわれの身だった後醍醐天皇の皇子恒良親王と成良親王の毒殺をしたとされている。これは太平記だけに書かれているとのことだが、下記太平記の記述には氏光の名前がない。
金崎の東宮竝将軍宮御隠れの事
- (新田)義貞、(脇屋)義助が杣山に兵を挙げ、尾張守(斯波高経)は府中(越前国府・現在の越前市)を逃げ出し、(金ケ崎)城は陥つたといふ事を聞いて、直義は烈火の如く怒り、
「これは皇太子が彼等を助ける為め、金崎で腹を切つたと申されたのを誠と思つた為めだ。此宮をこのまゝにして置いては、如何なる御企てをなさるかも知れぬ、鴆毒を差上げて御殺し申せ。」と命令したので、御兄弟の将軍宮(成良親王)と一所に押籠められてゐた皇太子(恒良親王)の所へ、お薬だと云つて鴆毒を持参した。皇太子(恒良親王)はそれを毒と知られつつ、とても遁れられる命ではないと、将軍宮(成良親王)と共々に七日の間それをお飲みになられた。皇太子(恒良親王)は其翌日から御病気になられ、四月十三日の夕方御心閑かにおかくれ遊ばされた。将軍宮(成良親王)は二十日程の後黄疸といふ御病気にかかり、これも遂におなくなりになつた。
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前年10月に越前木の芽峠で兄千葉介貞胤が斯波高経に降伏し、弟の粟飯原氏光が兄と今後のことを協議するために上洛していた可能性は否定できない。
しかし、千葉貞胤は嫡子一胤を戦いで失い、後継者となる氏胤が1歳の幼児。かって千葉介を争った千葉胤貞は前年11月に三河で病没。
この段階で千葉宗家にとって粟飯原氏光は最も頼りにされる人物で、足利直義から毒殺を命令されるような立場にはないのである。
足利直義が毒殺を命令するなら、自分の家来か二人の宮を拘束している場所の責任者に命令するはずである。今日の公務員に例えると、粟飯原氏光が千葉県の副知事なら毒殺を命令された人は、刑務所の所長もしくは法務省の課長クラスではないだろうか。
足利氏にしてみれば粟飯原氏光に期待することは、自信を喪失している千葉介貞胤を支え北朝のために千葉氏を動かすことだろう。
粟飯原氏光の嫡子粟飯原清胤は千葉氏胤が15歳で家督を継ぎ成人するまで補佐し、孫の粟飯原詮胤は千葉満胤が6歳で家督を継ぐと一族・家臣とともに補佐したことが千葉大系図に書かれている。
千葉大系図によれば、粟飯原氏光の子孫である下総国小見川城主粟飯原但馬守胤行は、娘を上総国勝見城主金田左衛門大夫信吉に嫁がせ金田正信・正興兄弟を生んだ。三河金田氏の祖である金田正興の母が粟飯原氏出身であることを考えると、粟飯原氏光に親しみを感じざるを得ない。
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(7)円城寺氏を検証
千葉宗家の有力重臣鏑木氏の分家蕪木常泰の子として生れ、円城寺氏を継いだのが円城寺貞政である。千葉宗家の家臣の第四と千葉大系図に書かれている。
後に原氏・木内氏・鏑木氏とともに、千葉四天王と呼ばれる重臣に円城寺氏はなっていく。
➀原氏出身の円城寺氏について
円城寺貞政は千葉貞胤・千葉氏胤に仕えたが、九州千葉氏に重臣として仕えた円城寺胤清という人物がいる。2人は同じ時代に生きたが血縁関係はない。
まず円城寺胤清を知るために、出身の原氏について述べたい。
原氏は千葉介兼胤の弟、原胤高の代から千葉宗家の筆頭家老として有名になるが、その前のことは千葉大系図では皆無に等しい。
上記系図では粟飯原常基の弟して原常宗が記載されいるが、千葉大系図では原常途として書かれ千葉生実城を居城としたと書かれている。その子孫については何も書かれていない。
それに対して、九州千葉氏の系譜に基づき作成された神代本千葉系図では、千葉常兼・鴨根常房の弟として原常宗が記載されその子孫は多く記載されている。
神代本千葉系図のままだと千葉大系図との整合性がなくなるので、千葉大系図に書かれている原常途を原常宗を同一人物として考え、神代本千葉系図の原常宗から牛尾泰親までの系譜を抜粋し、牛尾泰親から円城寺胤清にたどりついたのが上記系図であります。
神代本千葉系図では九州千葉氏の重臣円城寺氏の出身一族である原氏について詳細に系図が書かれているが、千葉宗家の千葉大系図では原常途以外省略されたのにはそれなりの理由があります。
治承4年(1180年)源頼朝が挙兵し安房に上陸後、千葉常胤が下総国の目代を襲撃した時に、千葉荘を攻撃してきた藤原親政軍の主力となったのが原常継・常朝・清常・常直親子とその一族であった。藤原親政の軍は千葉常胤・上総広常の軍が援軍として来たので撃破され、藤原親政は生捕りとなった。原常継たちはその後千葉常胤に帰服することを許され、千葉常胤の所領となった千田荘の被官となったと推定される。
鎌倉時代末期、千葉胤貞が千田荘を拠点に千葉介の地位をめぐって千葉貞胤と争そうことになり、原氏出身の円城寺胤清は飛躍の機会を得たのであった。
正和5年(1316年)円城寺胤清は千葉胤貞に従って肥前国小城に下向し九州千葉氏の重臣となった。
しかし、原氏の多くは九州に移ることはなかった。
②蕪木氏出身の円城寺貞政が円城寺氏を継承する
円城寺胤清が九州へ下向した後、円城寺氏を継いだのが円城寺貞政である。
円城寺氏は下記表に掲載した円城寺氏の書状に源姓があることから源氏の末裔らしい。
仁治2年千葉介時胤が24歳で没し、その子亀若丸(後の千葉介頼胤)が3歳で家督を継いだ時、円城寺某が家臣として内山中務丞・中頓式部とともに千葉大系図に載っており、原氏出身の円城寺胤清が円城寺氏を継ぐ以前から千葉宗家の有力家臣として存在していた。
千葉胤貞が九州へ下向し、千葉宗家を継承した千葉介貞胤にとって円城寺氏とその一族の協力が必要であったのだろう。
そこで重臣鏑木氏の一族蕪木氏出身の貞胤を円城寺氏の養子として送り込んだ。
円城寺貞胤は後に千葉介氏胤を補佐し、足利尊氏・直義からも信頼される有能な人物であった。
円城寺氏や原氏などの千田荘の人々との融和を図ることに見事成功したと考えられる。
このようなことから、南北朝の動乱で千葉介貞胤が上京し長い間下総国を留守にしても、下総国は平穏でいられたのであった。
円城寺貞政は千葉介氏胤を良く補佐をして、円城寺氏を家臣筆頭の地位を築いた。
千葉満胤の代になっても円城寺式部丞・円城寺駿河守が家臣筆頭として千葉大系図に書かれている。
③円城寺氏に係わる書状から一族を検証
千葉一族のホームページの中にある円城寺氏「千葉家の宿老」に「書状に見える円城寺氏の時系列」という書状の一覧がある。
円城寺貞政とその子孫に係わる書状とそれ以外の書状に区分けすることによって、円城寺氏について興味深い事実が判明した。
その結果が下記の表である。円城寺貞政とその子孫を青色で表示した。
千葉大系図で円城寺図書允貞政・円城寺七郎貞晴・円城寺式部丞常忠のみ名前が書かれているが、他は官位のみ記載されている。円城寺式部丞常忠については何故上総氏伝統の忠の字が使用されているのか違和感を感じていた。千葉大系図に書かれている円城寺貞政の子孫の多くは官位のみなので、式部丞常忠についても正確とは断定できない。書状によって下記事項が判明しただけでも幸いである。
- 図書允氏政は円城寺図書允貞政のことを指している。足利尊氏から足利尊氏から偏諱を与えられて氏政と称していたのかもしれない。
- 円城寺七郎は千葉大系図に書かれている円城寺七郎貞晴のことである。
- 円城寺駿河守は千葉大系図とも一致しているが、名前が無いのが残念である。
- 円城寺式部丞政氏は、円城寺式部丞常忠のことを指していると思われる。貞政の子孫ならば常忠よりは政氏の方が相応しい名前である。
- 円城寺満政は官位が記載されていないので特定できないが、貞政の子孫に相応しい名前である。(円城寺式部丞の子円城寺下野守の可能性あり)
- 最後に出てくる円城寺下野守・駿河守は千葉大系図と比較しても、生きていたであろう時期が相応である。
千葉介胤直以降、円城寺貞政の子孫らしき書状が見当たらなくなり千葉大系図でも円城寺駿河守で終わっていることを勘案すると、円城寺貞政の子孫は絶えた可能性が高い。下記表を検証することによって千葉大系図に書かれている事項は裏付けられたと言える。
次に下記表にある円城寺貞政とその子孫以外の書状を検証する。
円城寺左衛門尉胤朝・円城寺隼人佑胤泰・円城寺肥前守胤定が目立つ存在である。→赤色で表示
九州に下向した小城円城寺氏の親族が千田荘に残っていても不思議ではないのだ。
胤朝・胤泰・胤定は原氏出身の円城寺氏ではないだろうか。
1406年の香取神宮造営の納帳に多くの円城寺一族の名前が載っているのは興味深い。
これにより、円城寺貞政や原氏出身の円城寺氏以外に、源氏出身の円城寺氏の人たちが多く存在したと推測できる。
円城寺貞政とその子孫が千葉宗家の重臣として活動できたのも、このような円城寺一族(原氏出身の円城寺氏・源氏出身の円城寺氏など)の支えがあったからこそである。
円城寺氏「千葉家の宿老」は円城寺氏に係わることが書かれている。
円城寺駿河守で円城寺貞政の子孫が絶えたが、円城寺肥前守胤定が円城寺氏を継承したことが下記事実で明白になった。
1442年2月の上総国山辺郷観音教寺と11月の下総国印西庄龍腹寺の宝塔寄進の棟札に、大檀那として「平胤直」「平胤賢」に並んで家臣中筆頭として名を連ねる。千葉介胤直とその弟千葉胤賢と並んで筆頭家老であることを棟札に残してあった。蕪木氏出身の円城寺氏から原氏出身の円城寺氏に継承されたのであった。
しかし、最後に円城寺氏の家督を継いだ円城寺尚任がどのような人物か謎なのである。、円城寺肥前守胤定の子ならば胤の字がつくはずである。
本土寺過去帳に下野妙城・壱岐守妙壱 ・日向守妙向・若狭守妙若 と書かれているのは、1455年千田荘の戦いで亡くなった円城寺氏の供養のため本土寺の過去帳に書かれたもので、妙城・妙壱・妙若は戒名にあたるもので名前ではない。円城寺下野守尚任・円城寺壱岐守直時が生前の名前だが、円城寺肥前守胤定とは繋がるものがない。
康生元年(1455年)に古河公方派の馬加康胤・原胤房が幕府派の千葉宗家の胤直・胤宣父子を攻撃。
胤直・胤宣父子は千田荘へ逃げ込んだが、戦いに敗れ重臣円城寺尚任や援軍の常陸大掾頼幹とともにそれぞれ自刃し果てた。
この事件は重臣原胤房と重臣円城寺尚任の争いとして語られるが、千葉大系図でも原氏と円城寺氏の私戦と強調している。戦の原因は円城寺尚任が筆頭家老円城寺氏を継承したことにあるのかもしれない。原胤房・馬加康胤が千葉介親子を攻撃してるのに、千葉氏一族や多くの重臣が千葉介親子を援けようとしなかったのは、円城寺尚任の家督継承に反対意見が多かった証拠と思われる。
これにより千葉四天王としての円城寺氏は歴史上消えるが、その後武蔵千葉氏の家臣として存在した記録が残っている。
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書状に見える円城寺氏の時系列 (『円城寺氏について』遠山成一氏、『法華経寺文書』『本土寺過去帳』)
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名前 |
宛先 |
出典 |
千葉介 |
1334年以降 |
円城寺図書右衛門入道 |
千葉介貞胤 |
円城寺貞政?(鏑木氏より) |
千葉貞胤 |
1349年3月22日 |
図書允氏政 |
香取神社 |
千葉介氏胤の命による奉書を作成 |
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某年 5月9日 |
図書允氏政 |
香取神社大禰宜 |
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1351年 |
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千葉氏胤 |
1352年4月12日 |
円城寺七郎貞晴 |
足利尊氏 |
尊氏からの感状 |
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1353年2月25日 |
円城寺左衛門尉胤朝 |
妙印山妙光寺 |
日蓮坐像の胎内墨銘 |
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1353年9月29日 |
円城寺駿河権守 |
千葉介氏胤 |
伊勢神宮領相馬御厨の濫妨を鎮圧 |
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1354年6月15日 |
円城寺駿河守 |
足利義詮 |
宛名の改竄跡有 |
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1360年7月26日 |
円城寺左衛門尉胤朝 |
千葉介氏胤 |
上総国市東郡等の施行状(『円城寺文書』) |
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1365年 |
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千葉満胤 |
1372年2月 |
円城寺左衛門尉胤朝 |
中山本妙寺 |
多古千葉義胤の命による奉書 |
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1374年10月14日 |
円城寺式部丞政氏 |
円城寺隼人佐 |
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1375年12月28日 |
円城寺式部丞政氏 |
香取神社 |
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1383年4月22日 |
円城寺隼人佑胤泰 |
香取大禰宜 |
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1383年12月8日 |
円城寺隼人佑胤泰 |
中山浄光院? |
千田庄岩部郷内中山本妙寺末寺運興寺領について |
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1388年10月15日 |
円城寺隼人佑胤泰 |
千葉介満胤 |
千葉介満胤による下知状 |
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12月2日 |
沙弥常義 |
香取神社 |
円城寺隼人佑胤泰のこと |
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1390年10月15日 |
円城寺満政 |
香取神社 |
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1406年10月~ |
円城寺六郎兵衛 円城寺右衛門五郎 円城寺源兵へ 円城寺四郎 円城寺将監入道 円城寺源内左衛門 円城寺能登 円城寺近江入道 円城寺掃部 円城寺三郎左衛門 円城寺左衛門五郎 円城寺兵庫入道 円城寺勘解由 円城寺四郎 |
香取神社 |
香取神社造営の納帳 |
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1413年8月28日 |
円城寺隼人佑 円城寺五郎兵衛督
円城寺兵衛次郎 |
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千葉介兼胤の香取社参詣の代官 |
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1417年 |
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千葉兼胤 |
1419年2月26日 |
円城寺新兵衛 |
銚子円福寺 |
千葉介兼胤の参詣の時の奉行 |
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某 年8月16日 |
円城寺下野守 |
足利成氏 |
上総国二宮庄長尾郷について(『円城寺文書』) |
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1428年12月 |
円城寺駿河守 |
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香取神社の建替奉行 |
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1430年 |
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千葉胤直 |
1442年2月 |
円城寺肥前守胤定 |
観音経寺 |
千葉介胤直らに従い、宝塔寄進 |
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11月 |
円城寺肥前守胤定 |
龍腹寺 |
千葉介胤直らに従い、宝塔寄進 |
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1444年4月 |
円城寺因幡守 |
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『本土寺過去帳』 |
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1455年8月 |
円城寺下野妙城 |
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『本土寺過去帳』。円城寺尚任か |
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円城寺壱岐守妙壱 |
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『本土寺過去帳』 |
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円城寺日向守妙向 |
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『本土寺過去帳』 |
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1455年正月 |
円城寺若狭守妙若 |
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『本土寺過去帳』 |
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1455年 |
馬加康胤・ 原胤房による千田荘攻めで円城寺尚任戦死 |
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❶ ❷ ❸
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