長享2年(1488年) |
里見義実没し、里見成義家督を継承する。 |
永正元年(1504年) |
里見成義没し、里見義通家督を継承する。 |
永正3年(1506年) |
古河公方足利政氏と子の高基と不和となる。永正11年高基が事実上政氏に勝利するまで争いは続く。 |
永正7年(1510年) |
鶴岡八幡宮若宮別当空然(足利義明)宗斎と改名する。宗斎、武蔵国太田荘に挙兵。
宗斎、下野国小山城に移り還俗して足利義明と名乗る。その後父足利政氏の後継者を目指したと考えられる。 |
永正9年(1512年) |
古河公方足利政氏、古河城を退去し下野国小山城に移る。足利高基、関宿城から古河城に入り古河公方を称す。足利義明小山領に入部し「南之上様」と尊称される。 |
永正11年(1514年) |
足利政氏、佐竹義舜・岩城由隆等に命じて古河城の足利高基を攻める。
古河公方足利高基、宇都宮忠綱等に命じて政氏軍を迎撃させる。 |
永正13年(1516年) |
足利政氏、上杉朝良の勧めにより下野国小山城より武蔵国岩付城に移る。足利義明も父政氏の後継者となる夢破れ岩付城に移ったと考えられる。
真里谷信勝がいつ頃から争ったのかは特定できないが、下総国小弓城主原友幸と争い千葉介勝胤は原友幸を支援した。 |
永正14年(1517年) |
真里谷信勝、足利義明を両総方面の公方として奉じるために迎え入れた。安房の里見義通も真里谷陣営に加わった。古河公方足利高基・千葉介勝胤はこの状況を把握していなかったか、把握しても軽く考えていた。
里見義通率いる軍に真里谷軍も加わり庁南城を奇襲攻撃し落城させる。庁南武田氏が古河公方足利高基陣営から足利義明陣営になったことで、千葉介勝胤は上総国に対する備えが広範囲になり、小弓城を十分に支援することができなくなった。
真里谷軍に里見氏・庁南武田氏の軍が加わって小弓城を攻撃し優勢な戦いとなった。小弓城は落城し原友幸は下総国根木内城(原氏家臣高城胤広の居城)に撤退途中に原友幸・高城胤広は討死した。
「足利政氏、白田太郎に自身及び下総国高柳在住の子同義明への忠節を求む」と白田文書に残っていることから、足利政氏は足利義明陣営を支持していたと考えられる。 |
永正15年(1518年) |
小弓城を修築した生実御所が完成し足利義明が移り小弓公方と称す。
里見義通没し、里見義豊家督を継承する。 |
永正16年(1519年) |
古河公方足利高基、小弓公方に属する真里谷氏の椎津城を攻撃する。
足利政氏岩付城から武蔵国久喜甘棠院に移る。 |
大永3年(1523年) |
真里谷信勝没し真里谷信保家督を継承する。 |
大永4年(1524年) |
北条氏綱、扇谷上杉家の上杉朝興を高輪原の戦いで破り江戸城を攻略。 |
大永5年(1525年) |
上杉朝興は山内上杉家の上杉憲房や甲斐守護武田信虎と反北条の同盟を模索し反北条の包囲網液の形成を図る。。 |
大永6年(1526年) |
里見実堯鎌倉を攻め、鶴岡八幡宮以下の諸堂社を焼く。北条氏綱これを撃退する。(鶴岡八幡宮の戦い) |
享禄4年(1531年) |
享禄2年より古河公方足利高基・晴氏父子の対立が続いたが、高基が隠居し晴氏が古河公方の地位を確立したとみられる。 |
享禄5年(1532年) |
千葉勝胤没し千葉昌胤家督を継承する。(享禄5年は天文元年) |
天文2年(1533年) |
北条氏綱と通じた里見実堯・正木通綱を里見義豊が誅殺。 |
天文3年(1534年) |
里見実堯の嫡子里見義堯が北条氏綱の援助を受けて、犬掛の戦いで里見義豊を打ち取り里見氏当主となる。
真里谷信保讒言により小弓公方足利義明の勘気をこうむり出家し如鑑と号す。しかし勘気は解けず真里谷如鑑は死にいたる。
無実だった真里谷如鑑の死は真里谷氏の分裂を招き真里谷信隆・信応兄弟の争いとなる。
小弓公方足利義明は敵対した真里谷信隆の椎津城に攻め込む。 |
天文6年(1537年) |
里見義堯、北条氏綱と絶ち真里谷信応を授け、小弓公方足利義明を奉じ真里谷信隆を攻撃する。真里谷信隆降伏する。
扇谷上杉家の上杉朝興没し上杉朝定家督を継承する。北条氏綱、河越城を攻略。 |
天文7年(1538年) |
10/2小弓公方足利義明・里見義堯下総国の国府台に進出する。古河公方足利晴氏の要請を受け北条氏綱父子小田原を出発する。
10/6北条氏綱江戸城を出陣。
10/7北条氏綱・氏康父子、国府台にて小弓公方足利義明・里見義堯と戦う。(第一次国府台合戦)
足利義明・義純父子と弟の基頼戦死。里見義堯安房に走る。義明の子国王丸(後の頼純)は安房の里見氏を頼る。
北条氏綱が保護していた真里谷信隆が上総国に戻り椎津城を居城とし、真里谷信応は里見氏を頼る。 |
天文10年(1541年) |
北条氏綱没し、北条氏康家督を継承する。 |
天文12年(1543年) |
天文12年から13年にかけて笹子城中尾城をめぐる争乱が起き、真里谷信隆が一族の内紛で弱体化すると里見義堯の上総国への進出が本格化する。 |
天文13年(1544年) |
里見氏の武将正木氏が真里谷氏から大多喜城・勝浦城を奪う。 |
天文15年(1546年) |
千葉昌胤没し千葉利胤家督を継承する。
河越夜戦で山内上杉家・扇谷上杉家・古河公方連合軍を北条氏康が破り、扇谷上杉家は滅亡。 |
天文16年(1547年) |
千葉利胤没し千葉親胤家督を継承する。 |
天文19年(1550年) |
将軍足利義輝の命で 関東に下向した彦部雅楽頭が北条氏・里見氏の仲介を取り成す。 |
天文21年(1552年) |
真里谷信政の椎津城が里見義堯に攻められ落城。信政自害。かって争った兄信隆の子信政に味方した信応も自害。 |
弘治3年(1557年) |
千葉親胤暗殺され千葉胤富が家督を継承する。 |
永禄4年(1561年) |
小田原城の戦い(上杉謙信率いる10万が小田原城を包囲)その後鶴岡八幡宮にて上杉謙信関東管領に就任。
千葉大系図では千葉胤富が北条氏の援軍として小田原に出陣している間に里見義弘によって小弓城・臼井城が落城させられたが、千葉胤富が戻ってくると里見軍を打ち負かし両城を取り戻したと書かれている。但し里見系図には何も書かれていない。 |
永禄7年(1564年) |
1月第二次国府台合戦で北条氏康が里見義弘を破る。それまで里見氏に属していた万喜城主土岐為頼が離反し、北条氏康に寝返る。 |
永禄9年(1566年) |
3月原氏が守る臼井城の戦いで上杉謙信の軍が敗れる。千葉大系図では千葉胤富も出陣し戦ったと記されている。 |
永禄10年(1567年) |
三船山合戦で里見義弘が北条氏政の軍を破る。里見氏は第二次国府台合戦で失った上総国の領地を回復。 |
天正元年(1573年) |
北条氏が簗田氏が城主の関宿城を攻めた第三次関宿合戦に、佐倉城主千葉胤富と石浜城主千葉次郎(関八州古戦録では胤宗・千葉大系図では雅胤)が千葉衆として出陣。千葉次郎が討死。翌年5月佐竹・宇都宮の仲介で簗田氏は城を明け渡し第三次関宿合戦は終わる。石浜城主千葉次郎には子がなかったので北条氏繁三男の胤村が石浜城主となる。 |
天正7年(1579年) |
千葉胤富没し千葉邦胤家督を継承する。 |