(6)頼朝挙兵と石橋山の戦い
治承4年(1180年)5月平家打倒のため以仁王と源頼政が挙兵し敗れたが、諸国の源氏に平氏打倒を促す 「以仁王の令旨」が出された。
叔父の源行家より「以仁王の令旨」を受け取った源頼朝は挙兵を決意。安達盛長を父源義朝の配下だった豪族たちに使者として送った。
治承4年(1180年)8月17日源頼朝の兵が伊豆国目代山木兼隆の館を襲うことで、源頼朝が挙兵したことが具現化した。
その後におきた石橋山の戦い・頼朝の安房上陸までの経緯は下記のとおりである。
8月20日源頼朝が現在の湯河原町にある土肥郷まで進軍。
8月22日三浦義澄の軍が衣笠城を出発。
8月23日石橋山の戦い。三浦義澄の軍酒匂川の周辺に到着し、現在の小田原市周辺にある大庭景親に味方してる豪族の家屋を燃やした。翌朝には三浦義澄の軍が頼朝軍に合流すると危惧した大庭景親は、源頼朝軍への夜襲を決意し攻撃を開始した。
8月24日源頼朝軍敗走。大庭景親の軍による掃討作戦が展開された。夜が明け源頼朝軍の敗走を知った三浦義澄の軍は撤退を開始した。由比ケ浜で畠山重忠の軍と遭遇し戦となった。(小坪合戦)
金田頼次が70騎を率いて三浦義澄の軍に加わる。
8月26日畠山重忠が河越重頼・江戸重長ら同族の援軍を得て衣笠城を攻撃をする。
東木戸口は三浦義澄・佐原義連、西木戸口は和田義盛・金田頼次、中陣は長江義景・大田和義久各陣を張った。
8月27日三浦義澄の一族は船で安房に脱出した。最後に残った三浦義明は討ち死をした。三浦義澄たちは安房へ向かう途中、海上で土肥郷岩浦を出航した北条時政・岡崎義実を乗せた船と出会いお互いの無事を喜んだ。
8月28日源頼朝が真鶴半島を出航し29日に安房に到着。
8月23日の石橋山の戦いのことを吾妻鏡では次のように書かれている。
8月23日 癸卯 陰、夜に入り甚雨抜くが如し
今日寅の刻、武衛(頼朝のこと)、北條殿父子・盛長・茂光・實平以下三百騎を相率い、相模の国石 橋山に陣し給う。この間件の令旨を以て、御旗の横上に付けらる。中四郎惟重これを 持つ。又頼隆白幣を上箭に付け、御後に候す。
爰に同国住人大庭の三郎景親・俣野の 五郎景久・河村の三郎義秀・渋谷庄司重国・糟屋権の守盛久・海老名の源三季員・曽 我の太郎助信・瀧口の三郎経俊・毛利の太郎景行・長尾の新五為宗・同新六定景・原
宗三郎景房・同四郎義行、並びに熊谷の次郎直實以下、平家被官の輩、三千余騎の精
兵を率い、同じく石橋山の辺に在り。両陣の際一つの谷を隔つなり。景親が士卒の中、 飯田の五郎家義志を武衛に通じ奉るに依って、馳参せんと擬すと雖も、景親が従軍道
路に列なるの間、意ならず彼の陣に在り。また伊東の二郎祐親法師三百余騎を率い、 武衛の陣の後山に宿し、これを襲い奉らんと欲す。
三浦の輩は、晩天に及ぶに依って、 丸子河の辺に宿す。郎従等を遣わし景親が党類の家屋を焼失す。その烟半天に聳え、 景親等遙かにこれを見て、三浦の輩の所為の由を知りをはんぬ。相議して云く、今日 すでに黄昏に臨むと雖も、合戦を遂ぐべし。明日を期せば、三浦の衆馳せ加わり、定 めて衰敗し難きかの由群議す。事訖わり、数千の強兵武衛の陣に襲攻す。
而るに源家 の従兵を計るに、彼の大軍に比べ難しと雖も、皆旧好を重んずるに依って、ただ致死 を乞う。然る間真田の余一義忠並びに武藤の三郎、及び郎従豊三家康等命を殞す。
景親いよいよ勝ちに乗る。暁天に至り、武衛椙山の中に逃れしめ給う。時に疾風心を 悩まし、暴雨身を労る。景親これを追い奉り、矢石を発つの処、家義景親が陣中に相
交わりながら、武衛を遁し奉らんが為、我が衆六騎を引き分け景親に戦う。この隙を 以て椙山に入らしめ給うと。 |
一般的には、「頼朝軍に合流するため三浦義澄は三浦一族の軍を率いて石橋山を目指していたが、大雨による増水で丸子の河(酒匂川)を渡ることができなかった。」となっている。夜になって風雨が強くなったのは事実なのだが、三浦義澄の軍は増水が理由で頼朝軍に合流できなかったのでなく、大庭景親ら平家方の軍を背後から脅かすことが目的だったと考えたい。三浦義澄の軍が丸子の河周辺に到着後、大庭景親に味方した豪族の家屋を燃やすことによって自分らの存在を知らせたことになる。結局、それが原因で大庭景親の軍が頼朝軍を夜襲することになった。
少ない兵力の頼朝軍が大兵力の大庭景親の軍と互角の戦いをするには、要害の地に立て籠もるか奇襲作戦しかない。
まともに両軍が戦ったら頼朝軍は多くの戦死者をだすことが予想されたため、三浦義澄の軍が火を放ったのを合図に頼朝軍は石橋山からの撤退を開始したと思われる。
大庭景親の軍は三浦義澄の軍による攻撃に備え酒匂川方面にも兵力を分散させねばならず、頼朝軍は兵力の損耗を最小限にできた。真田の余一義忠などの戦死者は追尾してくる大庭景親の軍から頼朝たちを守るため、最後尾にあって追って来る敵を防ぐ為に戦死したと思われる。
吾妻鏡では8月24日頼朝軍の活躍を伝えるため大庭影親の軍との戦いの様子が書かれているが、実際は速やかな撤退を行なわれ散発的な戦いが行われたにすぎないのが真相ではないか。頼朝配下の有力な武将は大半が無事だったことが何よりの証拠である。
三浦義澄軍も自分らの役目を終えると、速やかに帰路についている。途中畠山重忠の軍と鎌倉の由比ヶ浜で遭遇し小坪合戦となり双方に戦死者をだしたのは計算違いだったかもしれない。
8月24日が小坪合戦だったが、8月26日には畠山重忠が河越重頼・江戸重長など武蔵国の豪族数千騎を率いて三浦氏の居城衣笠城を攻撃。三浦義澄らが脱出後8月27日に義澄の父三浦義明が打ち取られ落城した。三浦義明は89歳と高齢であり源頼朝の挙兵に役立つ戦いで死ねることを武門の誉れとして自ら進んで死んでいったのであった。
|
|
衣笠城跡 現在は石碑(右の写真)が残っているだけである
|
|
|
|
|