上総金田氏の歴史(歴代記)
 

   

 

 第一章  金田頼次とその時代 その4     ❹  
    

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  上総金田氏の祖である金田頼次は上総国金田保(保は古代律令制の行政単位で小櫃川河口付近にあった)を所領としたことから金田氏を称した。三浦義明の娘婿であり兄の上総広常とともに源義朝に仕え源氏が関東に勢力基盤を築くのに役だったと考えられる。
源頼朝が挙兵時に功績があったはずなのに吾妻鏡では衣笠城の戦いに名前が残るだけであった。それは後に上総広常が源頼朝に謀殺されたことが影響したものと考えられる。
上総広常が保元の乱・平治の乱で源義朝配下の武将として活躍し、琵琶湖西岸の堅田の浦にて別れた時に少年だった源頼朝が挙兵をしたことを喜び、鎌倉幕府創立の最大の功労者となった。しかし、意見の対立から上総広常が邪魔になった源頼朝によって謀殺され、その一族も所領を失い幽閉された。その後、一族は許されたとなってるが、その多くの所領は失われたのであった。
上総広常ににとって悲劇なのは謀殺されたことだけでなく、源頼朝を偉大な武士の棟梁とするため、上総広常に関する歴史的事実が書き換えられたり削除されたことであった。
ひどいのは吾妻鏡で、上総広常が12月に殺された寿永2年(1183年)にあった出来事1年分を抹消してしまった。
これにより、上総広常の人物像は歪められてしまい金田頼次にいたっては歴史上抹殺されてしまった。

金田頼次の子孫は、金田頼次が幽閉され時に無念の死を遂げたことを知っている千葉常胤によって生き残ることができた。その後、千葉宗家とともに歩んだことで千葉大系図に金田氏(蕪木氏を含む)の記録が残り、今日子孫である我々が先祖のことを知ることができるのである。



桓武天皇 -5代略- 平忠常 -4代略- 平常澄 上総広常    
   
金田頼次 金田康常  ―  金田成常(千葉大系図では盛常)
   
 
 (10)吾妻鏡と上総広常 (下総国府に参上するまで)

源頼朝が安房上陸後の吾妻鏡に書かれている上総広常の記述について検証いたします。


 1180年 (治承4年 庚子)


 9月4日 癸丑
 安西の三郎景益御書を給うに依って、一族並びに在廰両三輩を相具し、御旅亭に参上す。景益申して云く、
左右無く廣常が許に入御有るの條然るべからず。長狭の六郎が 如きの謀者、猶衢に満たんか。
先ず御使いを遣わし、御迎えの為参上すべきの由、仰 せらるべしと。仍って路次より更に御駕を廻らされ、景益が宅に渡御す。
和田の小太 郎義盛を廣常が許に遣わさる。籐九郎盛長を以て千葉の介常胤が許に遣わす。各々参 上すべきの趣と。

(9月3日に平家方の長狭常伴が源頼朝が安房に逃れてきたことを知り襲撃してきたが、三浦義澄の軍によって打ち破られた。)
翌日になり安西景益が一族の者・安房の役人など少人数で源頼朝のもとに挨拶に参上した。兵士を連れて来なかったのは敵と間違えられるのを恐れたからだろう。保元の乱に源義朝配下に安西の名前はあるが、その後安西氏がどのような立場だったか不明である。
安西景益が「安易に上総広常の所へ行くべきではない。長狭のような謀略をめぐらす連中が沢山います。まず途中から使いを出して、迎えに来るように命じられるのが宜しいと存知ます。」と述べたと書かれている。
安西景益がもし言ったとすれば、「上総国にも平家方勢力が存在するので、上総広常たちによって鎮定されるまでは安房を動かない方が賢明ですよ。」と言ったと思われる。
当時源頼朝を護衛する兵士は、三浦義澄配下の兵約300騎と上総広常の弟金田頼次の兵70余騎が中心になっており、わざわざ上総広常の悪口を言う必要はないからである。頼朝はその後安西景益の屋敷に移ったと書かれており、安西景益配下の兵士も源頼朝の軍に加わったので安房国の豪族たちの多くが頼朝方となったのであった。

 9月6日 乙卯
 晩に及び、義盛帰参す。申し談りて云く、千葉の介常胤に談るの後参上すべきの由、 廣常これを申すと。

9月4日に上総広常のもとに使者として出発した和田義盛が戻ってきた。
少なくとも9月3日以降は源頼朝が伊豆から安房に逃れたことが平家方にも伝わっている。上総国や下総国の目代や平家方豪族は、源頼朝追討の動きに入ったと考えられる。上総広常や千葉常胤は源頼朝方であることを明白にするとともに、上総国や下総国の一族や有力豪族たちを味方にする多数派工作をしていたはずである。上総広常の兄印東常茂は平家方だが、その息子たちは上総広常に味方し後に鎌倉幕府の御家人となった。
上総広常や千葉常胤によって上総国や下総国の多くの豪族は頼朝方となった。
和田義盛は上総国の状況を偵察に行っただけと考えるのが妥当だろう。日数から考えても上総広常と会っていないと考えられる。


 9月9日 戊午
 盛長千葉より帰参す。申して云く、常胤が門前に至り案内するの処、幾程を経ず、客亭に招請す。常胤兼ねて以て彼の座に在り。子息胤正・胤頼等座の傍らに在り。常胤 具に盛長が述べる所を聞くと雖も、暫く発言せず。ただ眠るが如し。而るに件の両息 同音に云く、武衛虎牙の跡を興し、狼唳を鎮め給う。縡の最初にその召し有り。服応 何ぞ猶予の儀に及ばんや。早く領状の奉りを献らるべしてえり。
常胤が心中、領状更 に異儀無し。源家中絶の跡を興せしめ給うの條、感涙眼を遮り、言語の覃ぶ所に非ざ るなりてえり。その後盃酒有り。
次いで、当時の御居所、指せる要害の地に非ず。ま た御曩跡に非ず。速やかに相模の国鎌倉に出でしめ給うべし。常胤門客等を相率い、 御迎えの為参向すべきの由これを申す。

9月9日に安達盛長が千葉常胤と面談したと書かれているが、これは7月に安達盛長が源頼朝の使者として国々の豪族の許へ廻り文をして、味方として馳せ参じるよう促した時のことを書いたものであろう。 当地とは7月にいた伊豆の北条館のことで、、鎌倉を源頼朝の本拠地とするとして勧めたのは千葉常胤であったことを吾妻鏡に残したかったのが動機である。
安達盛長が使者として上総国を通過して下総国へ行くにはあまりに危険だったはずである。


 9月13日 壬戌
 安房の国を出て、上総の国に赴かしめ給う。所従の精兵三百余騎に及ぶ。而るに廣常軍士等を聚めるの間、猶遅参すと。
今日、千葉の介常胤子息・親類を相具し、源家に 参らんと欲す。爰に東の六郎大夫胤頼父に談りて云く、当国目代は平家の方人なり。
吾等一族悉く境を出て源家に参らば、定めて凶害を挟むべし。先ずこれを誅すべきか と。常胤早く行き向かい追討すべきの旨下知を加う。
仍って胤頼並びに甥小太郎成胤、 郎従等を相具し、彼の所を競襲す。目代は元より有勢の者なり。数千許輩をして防戦 せしむ。
時に北風頻りに扇くの間、成胤僕従等を館の後に廻し放火せしむ。家屋焼亡 す。目代火難を遁れんが為、すでに防戦を忘る。この間胤頼その首を獲る。

源頼朝が兵を連れて安房を出発したのは、上総国の平家方勢力を上総広常たちが打ち破り安全に通過できるようになったからである。
吾妻鏡では上総広常に対する敵意むき出しの表現になっていく。上総広常たちが上総国掌握のための軍事的活動は無視され、遅参だけ誇張されている。
三浦義澄の率いる兵300騎だけを精兵として書いており、上総広常の弟金田頼次の兵70余騎や安房国の豪族たちの兵などを意図的に兵数に加わらないようにしている。
それに対して千葉常胤の活躍を吾妻鏡は誇張している。下総国目代を攻め滅ぼしたことや9月14日に平家方藤原親政の軍を破り親政を生け捕りにしたことなどが書かれている。

◎上総広常が源頼朝方に加わっていることは、当時京都にも伝わっており九条兼実の日記「玉葉」にも記録として残っている。
 治承4年9月11日の記録の一部

治承四年九月五日   宣旨  左大将、左中弁
 伊豆の国の流人源の頼朝、忽ち凶徒凶党を相語らい、当国隣国を虜掠せんと欲すと。叛逆の至り、すでに常篇に絶ゆ。宜しく右近衛権の少将平の維盛朝臣・薩摩の守同忠度朝臣・参河の守同知度等をして、彼の頼朝、及び與力の輩を追討せしむべし。
 兼ねてまた東海・東山両道の武勇に堪たる者、追討に備えしむべし。その中殊に功 有る輩を抜きんで、不次の賞に加うべしてえり。
 伝聞、近曽仲綱息※1(素関東に住すと)を追討せんが為、武士等(大庭の三郎景親と。これ禅門私に遣わす所なり)を遣わす。而るに件の仲綱息、奥州方に逃げ脱しをはんぬ。然るの間、忽ち頼朝の逆乱出来す。仍って合戦するの間、頼朝等を筥根山に遂い籠めをはんぬ。
茲に因って追い落とさるるの由風聞するか。而るにその後上総の国の住人、介の八郎廣常、並びに足利の太郎(足利俊綱※2)等余力す。その外隣国有勢の者等、多く以て與力す。還って景親等を殺しをはんぬと欲するの由、去る夜飛脚到来す。事大事に及ぶと。
但し実否を知り難し。(略)また熊野の湛増、猶悪逆を事とす。別当範智與力しをはんぬと。

※1以仁王の挙兵で討ち死にした源頼政の子源仲綱のこと。仲綱息とは仲綱の息子の意味であり、源仲綱の次男源有綱のことと思われる。源有綱は頼朝挙兵に参加しているが陸奥へは逃げていない。
※2足利氏は藤姓足利氏と源姓足利氏が当時存在し、足利の太郎は藤姓足利氏の足利俊綱を指すが平家方だった可能性が高く、一般的には源姓足利義兼(室町幕府足利氏の祖)との間違いではないか。


9月5日には源頼朝が挙兵したことを受け、平維盛・平忠度などに追討軍派遣の宣旨があった。
伝聞として源頼朝は石橋山の戦い後に箱根山に籠ったが、上総広常や多くの豪族が味方した。9月11日の段階では平家方の大庭景親を殺す勢いになっている。
貴族の日記であるが、吾妻鏡と違い客観性があり重要な資料である。上総広常が源頼朝の味方をしたことが、京都にまで伝わっていたのであった。



9月17日 丙寅
 廣常の参入を待たず、下総の国に向わしめ給う。
千葉の介常胤、子息太郎胤正・次郎 師常(相馬と号す)・三郎胤成(武石)・四郎胤信(大須賀)・五郎胤道(国分)・六郎大夫胤頼(東)・嫡孫小太郎成胤等を相具し、下総の国府に参会す。従軍三百余騎 に及ぶなり。常胤先ず囚人千田判官代親政を召覧す。次いで駄餉を献る。武衛常胤を 座右に招かしめ給う。須く司馬を以て父たるの由仰せらると。

9月17日に源頼朝は下総国府に到着し、千葉常胤の出迎えを受けた。“参会す”の言葉からも下総国府に頼朝方の豪族たちが集合する手筈になっていた。
頼朝一行が安房を出発後、金田頼次の所領金田保(木更津市)・上総国府(市原市)・千葉氏の猪鼻城(千葉市)を途中通って現在の市川市国府台にある下総国府に到着した。途中の経緯は吾妻鏡ではすべて無視されている。
そのため上総国では、源頼朝一行は上総広常の出迎えを受けずに下総国へ出発したという印象を読む人に与えている。
千葉常胤が出迎えるだけなら居城猪鼻城に頼朝一行を迎えたはずであるが、上総広常・千葉常胤が下総国府を集合場所として選んだのである。
吾妻鏡ではここでも上総広常に敵意むき出しの表現となっている。



 9月19日 戊辰
 上総権の介廣常、当国周東・周西・伊南・伊北・廰南・廰北の輩等を催し具し、二万騎を率い、隅田河の辺に参上す。
武衛頗る彼の遅参を瞋り、敢えて以て許容の気無し。廣常潛かに思えらく、当時の如きは、卒士皆平相国禅閤の管領に非ずと云うこと無し。
爰に武衛流人として、輙く義兵を挙げらるの間、その形勢高喚の相無くば、直にこれ を討ち取り、平家に献ずべしてえり。仍って内に二図の存念を挿むと雖も、外に帰伏の儀を備えて参る。然ればこの数万の合力を得て、感悦せらるべきかの由、思い儲くの処、遅参を咎めらるの気色有り。これ殆ど人主の躰に叶うなり。これに依って忽ち害心を変じ、和順を奉ると。
 (現代語)
9月19日 戊辰

上総介広常
は周東・周西・伊南・伊北・廰南・廰北などの武者2万騎を率いて隅田川の岸に参上した。
源頼朝はこの大軍を見て喜ぶどころか遅参を厳しく叱責した。
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「国中が清盛の意中にあるのに一介の流人に過ぎない頼朝が挙兵した、更に自分の率いる大軍を見て感激するどころか遅参を叱責されてしまった。
源頼朝が器に欠ける場合には討ち取る意図を持っていたのに、これは大将軍の器量」と感じた上総広常は心服し、源頼朝に従うことを誓った。

9月19日に吾妻鏡について書かれた頼朝に二心を抱いてる書き込みが、上総広常の歴史的評価を決定づけた。
更に治承5年(1181年)6月19日の頼朝が納涼で三浦の海岸に遊びに行ったときに、他の者たちが馬から下りて平伏したのに広常だけが馬から下りず源頼朝に対して無礼な態度をとった。源頼朝は広常の行動を快く思わなかった。
そして、寿永2年(1183年)12月12日謀反の疑いで、上総広常は源頼朝の命を受けた梶原景時によって謀殺されたと。

しかし、頼朝に二心を抱いている書き込みは、当時の状況としては疑問を持たざるを得ないのである。
上記九条兼実の日記「玉葉」でも上総広常が頼朝に味方し反平家として活動していることが京都にまで伝わっていることを既に述べた。上総広常は千葉常胤と連携し、更に房総平氏一族の多くを味方につけ、上総国・下総国の平家方目代・豪族などを打ち破ったのである。
上総広常とともに下総国府に到着した軍勢の多くは、上総広常の家臣ではなく独立した豪族の集合体なのである。上総広常が源頼朝に味方し反平家を鮮明にして集まっているのに、「源頼朝が器に欠ける場合には討ち取り平家に首を献ずる意図を持っていた」などありえないのである。
源頼朝も遅参を厳しく叱責するはずもなく、上総広常に従って到着した人々に向かって、労いと味方になってくれたことに対する感謝の言葉をかけたと考えたい。
源頼朝が鎌倉幕府の初代将軍になれたのも、人間的な魅力を持っていたからこそ多くの御家人を従えることができたのである。


次に上総広常についても検証したい。
「源頼朝が器に欠ける場合には討ち取り平家に首を献ずる意図を持っていた」などありえないのは、当時の状況が許さなかったからである。
平家の侍大将藤原忠清は上総介として、上総権介である広常を圧迫してきた。上総介広常が平氏の怒りにふれ、子息の良常が京都に召籠められたのも藤原忠清によるものである。又石橋山の戦いで大庭景親の率いた軍は相模国・武蔵国の豪族が主体であったが、いずれも藤原忠清によって培われた平家方勢力である。上総広常は平家方勢力を打ち破るために戦ってきており、藤原忠清が侍大将をしている平家に源頼朝を打ち取って首を献ずるなどは絶対にありえないのである。

上総広常は源義朝配下の武将として保元・平治の乱を戦った。平治の乱では頼朝の兄悪源太義平が関東から所数精鋭の援軍を率いて上京した。
しかし、六波羅に多くの兵を集めた平清盛方に味方だった武将まで寝返ることになり、少数精鋭の源義朝の軍が敗れ去った体験を上総広常はしたのであった。
この経験から安房・上総・下総を制圧した後、武蔵国に一番近い下総国府に全軍が集合し源氏の白旗で国府が真っ白になるまで掲げさせたのであった。
二万騎というと誇張のように感じるが、年寄りから年少者まで多くの人たちを下総国府に集め、源氏の大軍で下総国府が溢れているように見せることで敵方を威圧するのも戦術として有効だったと考えられる。

、小山朝政、下河邊行平、豊嶋淸元、葛西淸重などは伊豆の頼朝に馳せ参じることができなかった多くの武将が下総国府に馳せ参じ、更に平家方だった畠山重忠・江戸重長たちまで寝返ったのであった。
このようにして上総広常と千葉常胤が周到な準備をしてたてられた戦略によって、源頼朝は大軍を率いて鎌倉に向かうことができたのであった。




 
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