(7)源頼朝が挙兵を決意 1180年 (治承4年 庚子)
石橋山の戦いから下総国府までの源頼朝たちの動きについての通説は以下の通りである。
①8月23日から24日にかけて行われた石橋山の戦いは源頼朝の敗北に終わった。
②海上で北条時政と三浦一族が出会い安房へ向かう
③8月29日に源頼朝が安房上陸後、上総広常に馳せ参じるよう使者を送ってもなかなか馳せ参じない
④9月19日に下総国府にいる源頼朝のもとに上総広常が2万の大軍を率いてやっと馳せ参じたが、源頼朝が遅れたことを怒り許そうとしなかった。
これらは北条氏が編纂した歴史書吾妻鏡に書かれていることが通説となったことによる。
吾妻鏡に書かれていることが事実と異なっていることは、「9月5日付の頼朝追討の宣旨が発令され平維盛を大将とする追討軍の準備が始まった。」との九条兼実の日記に記録が残っていることからも明らかである。
石橋山の戦いで敗れた源頼朝が安房に上陸後、上総広常・千葉常胤など関東有力豪族たちが源頼朝に味方し平家方を攻撃したので、時の権力者平清盛は新たな追討軍を派遣しなければならない事態になってしまったのである。
吾妻鏡に書かれている上総広常に関する事項については、(10)吾妻鏡と上総広常で検証することにする。
ここでは源頼朝が挙兵を決意した6月から挙兵の準備が行われた時期に相当する7月のことを検証する。
6月19日に京都の三善康信が弟康清を使者として、重要な連絡を頼朝に伝えるため伊豆まで下向させてきた。
「以仁王が討たれた後、令旨をうけた源氏などはみな追討されることに決しました。源氏の正当である貴方は特に危い。至急に奥州へ落ちられた方がよろしいでしょう。」
三善康信は下級貴族で母が源頼朝の乳母の妹だったことが縁で、月に3度京都の情勢を知らせてきていた。
三善康信の勧めに従い平泉の奥州藤原氏を頼って逃走するか、父源義朝が築いた関東での地盤を生かして平氏追討の挙兵をするか頼朝は決断を迫られたのであった。
治承4年(1180年)6月27日京都番役を終えた三浦義澄と千葉胤頼(千葉常胤の六男後の東氏の祖)が頼朝のいる北条氏の館に立ち寄り密談をしている。
源頼朝が三浦義澄・千葉胤頼と密談をしたのは挙兵に係わる重要な事柄についてだったと推測できる。
三浦義澄と千葉胤頼が源頼朝の挙兵に味方することを密談で表明したのは明白である。
三浦義澄が父三浦義明への報告と義理の弟金田頼次を通じて上総広常を味方に誘うことを誓ったのではないだろうか。
千葉胤頼は父千葉常胤に頼朝の意向を伝えることと、千葉常胤と上総広常が協力して房総平氏一族の大半を頼朝の味方につけることを誓ったに違いない。
延慶本平家物語で源頼朝に対し北条時政が次のように述べている。
「上総介広常と千葉介常胤と三浦介義明に語らいなさい。この3人さえ味方についたならば、土肥・岡崎・懐嶋などの武士は、もともと志を寄せているものだから参るでしょう。(畠山重忠・稲毛重成・大庭景親は敵となるが)広常・常胤・義明の3人さえ参ったならば、日本国は手の内にしたのと同じです。」
源頼朝は北条時政の言葉を信用した。
治承4年(1180年)7月になると、源頼朝の使者として安達盛長は国々の豪族の許へ廻り文をして、味方として馳せ参じるよう促した。
上総広常は使者安達盛長に対し、
「生きていてこのことを承る身の幸いにあらずや、忠をあらわし名を止めること、この時にあり。」と早速了承した。
平治の乱で源義朝父子が近江まで敗走し、上総広常が義朝父子と堅田の浦で別れて20年が経った。当時14.歳だった源頼朝も34歳となった。
当時60歳前後と推定される上総広常にとって、源義朝配下の武将として保元の乱・平治の乱を戦ってきたことから、万感の思いを込めた言葉だった。
「ただ船の都合(挙兵に参加する十分な兵力を乗せるだけの船の数が不足)があるので8月下旬までに挙兵をする場合の参加は無理だ」と安達盛長に伝えている。 上総広常が船の都合を理由としたのは下記のことが考えられる。
①上総国や下総国には在庁官人や平家方豪族もおり、千葉常胤など源氏方を結集してこれを破らねばならない。
②下総と武蔵の境界付近は現在の東京湾の入り江が深く入り込んでおり、利根川・荒川などの河口を兵をひきいて渡る為の船が必要であった。
③当時の武蔵国や相模国の豪族の多くは平家方で、陸路で伊豆までたどり着くのは困難であった。
④上総から伊豆まで海を船で行くのは一番良いが、平家方を破るのに十分な兵を乗せるだけの船の数が足りないのであった。
上総広常は保元の乱では千葉常胤と、平治の乱では三浦義澄と一緒に頼朝の父源義朝配下の武将として戦ったのであった。
平家の侍大将藤原忠清が上総介として赴任してから圧迫を受けており、平家を憎む気持ちは人一倍である。
しかし、上総から多くの兵を連れて伊豆まで行くことは事実上不可能であった。千葉常胤も同意見だったに違いない。
吾妻鏡では、頼朝が挙兵を決意した6月と挙兵が実施された8月の中間になる7月についての記述が少ない。
しかし、三浦義澄・上総広常・千葉常胤は平家方の在庁官人や豪族たちに怪しまれないようにそれぞれの所領で準備を進めていたと考えられる。
豊島清元・葛西清重も上総広常と同様の理由で挙兵に参加できないことを安達盛長に伝えたはずである。このようなことを考慮し7月の段階で三浦義澄や源頼朝が安房への脱出を図り、房総方面から反平家勢力を屈集するるため綿密な計画が練られても不思議ではなかったのである。
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