(12)上総広常暗殺と東国国家論
寿永2年(1183年)12月上総広常は謀反の罪を着せられ梶原景時によって謀殺された。嫡子上総能常は自害し、一族も拘束されその所領を没収された。
吾妻鏡では寿永2年(1183年)の1年分が欠落している為、上総広常が謀殺されるまでの詳細な経緯は不明なのである。
「愚管抄」により12月22日に梶原景時による不意討ちにより上総広常が殺されたことが書かれ、翌年吾妻鏡に記載されている正月元旦のこととして上総広常暗殺事件が昨年暮れにあったことを暗示されており、「愚管抄」に書かれてる通りであったと認識できる。
頼朝は上洛に最も慎重な御家人であった上総広常を邪魔な存在として謀殺したものと思われる。
ここでは上総広常謀殺と梶原景時に暗殺を命じた源頼朝との関係について考察してみたい。前項などで吾妻鏡に書かれている上総広常に係わる事項を検証してきたが、上総広常暗殺の理由は「東国国家論」で説明するのが相応しいという結論に達した。
歴史学者佐藤進一氏は、鎌倉幕府を東国における朝廷から独立した独自の特質をもつ別個の中世国家と見なす「東国国家論」を提唱している。関東の豪族たちが京都の朝廷による支配から独立した東国を地盤とする一つの国家をつくることをめざしたのではないかと述べている。
国家という言葉には馴染みにくいが、朝廷から独立した政治権力という意味で使われていると自分は解釈している。
上総広常は京都の朝廷による支配からの独立を早くから主張したのは事実である。広常は「なぜ朝廷のことにばかり見苦しく気を遣うのか、我々がこうして坂東で活動しているのを、一体誰が命令などできるものですか」と言うのが常であったという。(愚管抄)
広常が「平氏政権を打倒することよりも関東の自立」を主張していたため、平家打倒を実現し朝廷から武家の棟梁に命じられることを目指す源頼朝にとって邪魔な存在であった。
「愚管抄」で後白河法皇に頼朝が広常のことを述べた記録が残ったおり、広常に対する源頼朝の認識を知ることができる。
建久元年(1190年)源頼朝が上洛し、11月9日に初めて後白河法皇と面会した時に後白河法皇から権大納言と右近衛大将に任命された。
在京中、源頼朝と後白河法皇の面談は8回に及んだ。
愚管抄によると「広常は頼朝にとって対抗あるものでしたが、謀反の心を持っていたので、このような者を郎党としていては、自分まで神仏の助けを得られないと考え、殺しました」と源頼朝が後白河法皇に話した。 上総広常が謀反の罪で殺されたのは寿永2年(1183年)12月のことで、7年も前に起き既に無実が判明した事件を頼朝が後白河法皇に述べたのは、後白河法皇に伝えたい何らかの意向があったからである。
広常が謀反の心を持っていたとは、朝廷に対して謀反の心を持っていたという意味で源頼朝が後白河法皇に伝えたのであった。
「頼朝にとって大変な功績のある広常ではあったが、朝廷に対して謀反の心を持っていたので殺しました。」という内容なのである。
源頼朝は上総広常謀殺の動機から考えて、京都の朝廷による支配を受け入れる考えを持っていたのである。そのことを上洛前に把握していた後白河法皇は、源頼朝を太政官である権大納言に任命し右近衛大将にも任じた。源頼朝は喜んで任命された可能性が高い。京都育ちの源頼朝にとって、京都での生活は快適で公卿・高僧など多くの文化人と接することができ至福の日々であった。
後白河法皇は源頼朝を京都に太政官として常駐させることで、源頼朝とその配下の人々を京都の朝廷に取り込むことを狙っていた。
上総広常が京都の朝廷から独立を主張したことは既に述べたが、この考えは鎌倉幕府の有力御家人に受け継がれていた。この主張に沿って鎌倉幕府を築き上げたのが北条政子だったのではないだろうか。
京都六波羅に屋敷が新築され、後白河法皇から破格の待遇を受ければ、源頼朝が鎌倉に戻りたくなくなってしまうことを北条政子が危惧していたはずである。そして、その危惧が現実の問題になってしまった。
すっかり京都の朝廷の侍大将気分に浸っていた源頼朝に、鎌倉に戻る何らかの働きがあったのであろう。12月14に京都を出発することになり、12月3日に権大納言と右近衛大将を辞した。両職を辞することによって京都を離れることができるようになったのである。
源頼朝が鎌倉に戻るのに北条政子が果たした役割は分からない。しかし、建久6年(1195年)3月に東大寺大仏再建供養のため源頼朝が再度上洛した時に、北条政子も同行している。前回の頼朝上洛で余程懲りた可能性があるのだ。
既に後白河法皇は没しており、北条政子が懸念する動きはなかったので、源頼朝は6月まで京都の生活を満喫し7月に鎌倉に戻った。嫡子源頼家を源頼朝の後継者として披露するため宮中に参内させるなどやるべきことはやったのであった。
源頼朝が2度上洛したことについて述べたが、その間に重大な出来事があった。
建久3年(1192年)3月に後白河法皇が崩御し、九条兼実の働きで7月12日の除目で源頼朝は征夷大将軍に任じられ、26日に朝廷から勅使を鎌倉で迎える。吾妻鏡では以後頼朝を将軍と呼ぶことになる。27日に将軍となった源頼朝のいる鎌倉の御所(幕府)に勅使を招きお祝いの儀式があった。
このことから、鎌倉幕府の成立を1192年とする説は、源頼朝は征夷大将軍に任じられ、幕府という言葉が初めて使われた年だからである。(今日では守護・地頭が設置された1185年が鎌倉幕府成立の年とされている。)
7月27日 丁酉
将軍家 両勅使を幕府に招請せしめ給う。寝殿の南面に於いて御対面。献盃有り。 |
征夷大将軍は令外官で、源頼朝一代で終わってもおかしくなかったのである。
源頼家・源実朝が武士の棟梁として征夷大将軍に任官され、将軍・幕府という言葉が定着していった。
後白河法皇が崩御後、九条兼実の努力もあって幕府と朝廷の関係は平穏なものであった。
しかし、後鳥羽上皇が朝廷の実権を握ると、幕府と朝廷の関係は不穏なものになっていく。
後鳥羽上皇は和歌を通じて三代将軍源実朝との接近をはかった。更に権大納言・内大臣・右大臣と昇進させたのである。
当時の朝廷は統治機構として機能しており、京都に住んでいない実朝が太政官として出世するのは異例であった。
後鳥羽上皇は源実朝をいずれ上洛させ、京都の朝廷に取り込むことを狙っていたのではないか。
それに危機感を感じた北条政子と北条義時は将軍実朝暗殺を決行したと考えられる。
後鳥羽上皇は北条義時追討の院宣を出し承久の乱がおきる。
御家人たちの権利を守り多くの負担から解放をするために、京都の朝廷から独立した政治権力を目指して、今日の鎌倉幕府を築き上げたのが北条政子であった。多くの御家人たちが北条政子を支持した。北条政子によって派遣された大軍は京都を制圧してしてしまった。
上総広常が主張した京都の朝廷による支配からの独立は、北条政子によって受け継がれ完成したと言える。
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