(11)吾妻鏡と上総広常(鎌倉へ出発以後)
源頼朝率いる大軍が鎌倉へ向かった以後の吾妻鏡に書かれている上総広常の記述について検証いたします。
10月2日 辛巳
武衛、常胤・廣常等が舟楫に相乗り、大井・隅田の両河を渡る。精兵三万余騎に及び、 武蔵の国に赴く。豊島権の守清元・葛西の三郎清重等最前に参上す。 |
当時の下総国周辺には多くの沼と入り江があった。(利根川等の水系図参照)
大井川は水系図で太日川と書かれており上流は渡良瀬川につながっている。隅田川は水系図で住田川と書かれており上流は利根川・荒川につながっている。
両河は川幅が広かったので渡るのに多くの船が必要であった。衣笠城から安房国に三浦氏一族を兵や物資を渡らせるのに役立った金田頼次が用意した船も活躍したと考えられる。(下記地図を参考)
10月3日 壬午
千葉の介常胤厳命を含み、子息・郎従を上総の国に遣わす。伊北庄司常仲(伊南新介常景男)を追討し、伴類悉くこれを獲る。千葉の小太郎胤正専ら勲功を竭す。彼の常
仲は長狭の六郎が外甥たるに依って、誅せらる所なりと。 |
伊南新介常景は平常澄の長男。父から家督を受け継いだが次弟印東常茂によって殺されたため、その子伊北常仲・伊南常明兄弟は母方の長狭常伴のもとに逃げた。この事件で平常澄の八男だった上総広常が一族の支持を得て房総平氏の当主となった。
父の仇である印東常茂は平家方として上総広常に敵対しており、伊北常仲・伊南常明兄弟はともに上総広常に味方するのが自然である。長狭常伴が安房国で三浦義澄軍と戦い敗死したことと関連付けているが、源頼朝に敵対した多くの者が許されており、伊北常仲だけがこの時期に千葉氏によって殺されたのは謎である。(弟の伊南常明はその後御家人になっている)
10月4日 癸未
畠山の次郎重忠、長井の渡に参会す。河越の太郎重頼・江戸の太郎重長また参上す。
この輩三浦の介義明を討つ者なり。而るに義澄以下子息門葉、多く以て御共に候じ武功を励ます。重長等は、源家を射奉ると雖も、有勢の輩を抽賞せられざれば、縡成り難きか。忠直を存ぜば、更に憤りを貽すべからざるの旨、兼ねて以て三浦一党に仰せ含めらる。彼等異心無きの趣を申す。仍って各々相互に合眼し列座するものなり。 |
小坪合戦・衣笠城の戦いで三浦一族と敵対した畠山重忠・河越重頼・江戸重長が参上して源頼朝配下となった。三浦義澄の使者によって説得工作がされた結果であろう。畠山重忠が味方になったことで武蔵国を安全に通ることができた。
10月20日 己亥
武衛駿河の国賀島に到らしめ給う。また左少将惟盛・薩摩の守忠度・参河の守知度等、富士河の西岸に陣す。而るに半更に及び、武田の太郎信義兵略を廻らし、潛かに件の陣の後面を襲うの処、富士沼に集う所の水鳥等群立ち、その羽音偏に軍勢の粧いを成す。これに依って平氏等驚騒す。爰に次将上総の介忠清等相談して云く、東国の士卒、悉く前の武衛に属く。吾等なまじいに洛陽を出て、中途に於いてはすでに圍みを遁れ難し。速やかに帰洛せしめ、謀りを外に構うべしと。羽林已下その詞に任せ、天曙を待たず、俄に以て帰洛しをはんぬ。時に飯田の五郎家義・同子息太郎等、渡河し平氏の従軍を追奔するの間、伊勢の国の住人伊藤武者次郎返し合わせ相戦う。飯田の太郎忽ち射取らる。家義また伊籐を討つと。印東の次郎常義は鮫島に於いて誅せらると。 |
富士川の戦いのことである。平維盛率いる平家軍は兵糧などの不足で甲斐源氏の奇襲で総崩れとなった。
この時に上総介として上総広常に圧力をかけ、大庭景親に源頼朝追討を命じるなど源氏方の天敵だった藤原忠清を打ち負かしたことは意義深い。
平家軍に加わっていた上総広常の兄印東常茂(上記吾妻鏡では常義と記載)は討ち果たされたのであった。
10月21日 庚子
小松羽林を追い攻めんが為、上洛すべきの由を士卒等に命ぜらる。而るに常胤・義澄 ・廣常等諫め申して云く、常陸の国佐竹の太郎義政並びに同冠者秀義等、数百の軍兵を相率いながら、未だ武衛に帰伏せず。就中、秀義が父四郎隆義、当時平家に従い在京す。その外驕者猶境内に多し。然れば先ず東夷を平らぐの後、関西に至るべしと。
これに依って宿を黄瀬河に遷せしめ給う。安田の三郎義定を以て、遠江の国を守護せんが為差し遣わさる。武田の太郎信義を以て駿河の国に置かるる所なり。
今日、弱冠一人御旅館の砌に佇む。鎌倉殿に謁し奉るべきの由を称す。果たして義経主なり。
秉燭の程、御湯殿。三島社に詣でしめ給う。御祈願すでに成就す。偏に明神の冥助に依るの由、御信仰の余り、当国内を点じ、神領を奉寄し給う。則ち宝前に於いて御寄進状を書せしめ給う。その詞に云く。
伊豆の国御園河原谷長崎
早く敷地を三島大明神に免じ奉るべし
右件の御園は、御祈祷安堵・公平の為、寄進する所件の如し。
治承四年十月二十一日 源朝臣 |
(現代語)
10月21日 庚子
(頼朝は)平左近少將惟盛を追って攻める為に、京都へ行くように武士達に命令しました。しかし、千葉介常胤、三浦介義澄、上総權介廣常達が忠告をして、云いました。常陸国の佐竹義政と秀義は数百の軍勢を擁していながら未だに部下になってきません。中でも、秀義の父の隆義は現在平家に従って京都にいます。その他にも奢れるものが大勢います。だから、関東を平定してから、関西に行くべきですとの事でした。これによって黄瀬川宿に戻りました。安田三郎義定を守護として遠江国へ行かせ、武田太郎信義を駿河の守護として置かれました。
「義経奥州より来たり頼朝に謁す」
「頼朝、三島社に神領を寄進す」 |
富士川の戦いに勝利した源頼朝は「上洛し、いっきに平家を討て。」と命じますが、千葉常胤、三浦義澄、上総広常らはこれに反対しました。まだ源氏に服属しない常陸の佐竹義政・秀義らを討ちとり東国を固めることが先決だと主張したため、頼朝はこれに従わざるをえませんでした。
安田義定を守護として遠江に武田信義を守護として駿河に置かれたと書かれているが、当時の源頼朝の勢力は駿河以西に及んでいないので、吾妻鏡編者による曲筆といわれている。
この黄瀬川の陣で奥州平泉から来た源義経と源頼朝が対面した。
10月23日 壬寅
相模の国府に着き給う。始めて勲功の賞を行わる。北條殿及び信義・義定・常胤・義澄・廣常・義盛・實平・盛長・宗遠・義實・親光・定綱・経高・盛綱・高綱・景光・遠景・景義・祐茂・行房・景員入道・實政・家秀・家義以下、或いは本領を安堵し、或いは新恩に浴せしむ。また義澄は三浦の介に為す。行平は元の如く下河邊庄司たるべきの由仰せらると。大庭の三郎景親遂に以て降人としてこの所に参る。即ち上総権の介廣常に召し預けらる。長尾の新五郎為家は岡崎の四郎義實に召し預く。同新六定景は義澄に召し預けらる。河村の三郎義秀は河村郷を収公せられ、景義に預けらる。
また瀧口の三郎経俊は山内庄を召し放ち、實平に召し預けらる。この外石橋合戦の余党、数輩有りと雖も。刑法に及ぶの者僅かに十に一つかと。 |
(現代語)
10月23日 壬寅
頼朝様は相摸国に着きまして、初めて論功行賞を行いました。
北條四郎時政、武田太郎信義、安田三郎義定、千葉介常胤、三浦介義澄、上総權介廣常、和田太郎義盛、土肥次郎實平、藤九郎盛長、土屋三郎宗遠、岡崎四郎義實、工藤五郎親光、佐々木太郎定綱、佐々木次郎經高、佐々木三郎盛綱、佐々木四郎高綱、工藤庄司景光、天野藤内遠景、大庭平太景義、宇佐美三郎祐茂、市川別當行房、加藤五景員入道、宇佐美平次實政、大見平次家秀、飯田五郎家義以下の人達に今までの領地を認めたり、又は新しい領地を与えました。
義澄を三浦介に任命し、行平を前のとおり下河邊庄司に任命すると言われました。
「大庭景親降伏す」
大庭三郎景親はとうとう捕虜になって来ました。すぐに上総權介廣常に預けられました。
長尾新五爲宗は岡崎四郎義實の捕われ召し人となり、長尾新六定景は三浦介義澄の預かりとなりました。
河村三郎義秀は河村郷を没収され、大庭平太景義に預けられました。
又、山内首藤瀧口三郎經俊の山内庄を取り上げて、土肥次郎實平に預けました。
この他に石橋合戦の残党は数人ありますが、処刑したのはほんの十人中一人位だとの事でした。
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10月27日 丙午
常陸の国に進発し給う。これ佐竹の冠者秀義を追討せんが為なり。今日御衰日たるの由、人々傾け申すと雖も、去る四月二十七日令旨到着す。仍って東国を領掌し給うの間、日次の沙汰に及ぶべからず。此の如き事に於いては、二十七日を用いらるべしと。 |
10月21日の富士川の戦いの後、黄瀬川の陣で上総広常・千葉常胤・三浦義澄が源頼朝に進言した佐竹攻めが始まった。
11月4日 壬子
武衛常陸の国府に着き給う。佐竹は権威境外に及び、郎従国中に満つ。然れば楚忽の儀莫く、熟々計策有って、誅罰を加えらるべきの由、常胤・廣常・義澄・實平以下宿老の類、群儀を凝らす。先ず彼の輩の存案を度らんが為、縁者を以て上総の介廣常を遣わす。案内せらるの処、太郎義政は、即ち参るべきの由を申す。冠者秀義は、その従兵義政を軼す。また父四郎隆義は平家方に在り。旁々思慮在って、左右無く参上すべからずと称し、常陸の国金砂城に引き込もる。然れども義政は、廣常が誘引に依って、大矢橋の辺に参るの間、武衛件の家人等を外に退け、その主一人を橋の中央に招き、廣常をしてこれを誅せしむ。太だ速やかなり。従軍或いは傾首帰伏し、或いは戦足逃走す。その後秀義を攻撃せんが為、軍兵を遣わさる。所謂下河邊庄司行平・同四郎政義・土肥の次郎實平・和田の太郎義盛・土屋の三郎宗遠・佐々木の太郎定綱・同三郎盛綱・熊谷の次郎直實・平山武者所季重以下の輩なり。数千の強兵を相率い競い至る。佐竹の冠者金砂に於いて城壁を築き、要害を固む。兼ねて以て防戦の儀を構え、敢えて心を揺さず。干戈を動かし矢石を発つ。彼の城郭は高嶺に構うなり。御方の軍兵は麓の渓谷を進む。故に両方の在所、すでに天地の如し。然る間、城より飛び来たる矢石、多く以て御方の壮士に中たる。御方より射る所の矢は、太だ山岳の上に覃び難し。また岩石路を塞ぎ、人馬共に行歩を失う。茲に因って軍士徒に心府を費やし兵法に迷う。然りと雖も退却すること能わず。なまじいに以て箭を挟み相窺うの間、日すでに西に入り、月また東に出ると。
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(現代語)
11月4日 壬子。
頼朝様は常陸国府に到着されました。佐竹は権力を領地の外にまで及ばして、部下達は国中に溢れています。ですからあわてて責めるようなことはしないで、よく計略を練ってから攻めるように、千葉常胤、上総廣常、三浦義澄、土肥實平などの長老達が軍儀を練りました。まず、彼らの思惑を試す為に、縁戚の上総權介廣常を交渉に行かせたところ、佐竹太郎義政は直ぐに参上すると言いました。佐竹冠者義秀は、その部下の軍勢は佐竹太郎義政を超えており、又、父は現在平家方に味方しているので、考えると簡単に頼朝様へ参上出来ないと云って、常陸の金砂城へこもりました。
そして、義政は廣常の誘いを受けて大矢橋に来たところ、頼朝様は義政の家来を遠ざけて、一人だけで橋の中央に呼んで、上総權介廣常に殺させました。余りにもすばやい事でした。家来達はうなだれて降伏したり、慌てて逃げ走っていきました。
その後、秀義を攻撃する為軍勢を差し向けました。それらは、下河邊庄司行平、同四郎政義、土肥次郎實平、和田太郎義盛、土屋三郎宗遠、佐々木太郎定綱、同三郎盛綱、熊谷次郎直實、平山武者所季重以下の者達が数千の軍勢を引き連れて競い合うように向かいました。
「佐竹秀義金砂城に立て籠もり抗戦す」
佐竹秀義は金砂城で、城壁を作って守りを固め、以前から防戦する事に決めており、躊躇無く戦いを始め、矢石を放った。この城は高山の頂上に作られていた。頼朝の軍勢は麓の渓谷を進みます。だから、双方の構える場所は天地ほども離れています。それゆえ、城から飛んでくる矢石が沢山頼朝の軍勢に当たりました。味方から打ち放つ矢は、全く山上へは届きませんでした。その上、岩石が道をふさぎ、人馬が進むに困難を極めました。この為に無駄に心を悩ませ、戦い方も迷いました。それでも、引き下がらず、せん無いことをわざわざ無理して矢を構えて様子を見ている間に、太陽は西に入って、月は東に出始めたという。 |
上総広常が佐竹氏と縁戚と書かれているが、どのような関係なのかが判明しない。佐竹氏は平家との繋がりにより、相馬御厨の支配権を上総氏や千葉氏から奪っていた。上総広常・千葉常胤にとって相馬御厨の支配権を佐竹氏より奪い返すのが何より重要であった。
このような事情で始まった佐竹攻めであるが、上総広常が騙し討ちで佐竹義政を殺し、佐竹義季に直接会って佐竹秀義を裏切らせるなど活躍が目立つ。
上総広常の活躍により佐竹秀義は金砂城(茨城県常陸太田市金砂郷)を失い逃亡した。
佐竹義季はこの功績で源頼朝の御家人となることができたがその後讒言によって所領を失い、関白近衛家の縁故を頼って山城国葛野郡川島荘に移り革島氏として土着した。
花園城(茨城県北茨城市花園)に逃亡した佐竹秀義はその後源頼朝に許され御家人となることができた。後の戦国大名佐竹氏へと続く。
佐竹氏が失った所領は佐竹攻めで功績のあった熊谷直実などに分け与えられた。
上総広常が佐竹攻めの中心になって働いたことを吾妻鏡では11月8日までの事項として記載されている。
①上総広常が相馬御厨の支配権を奪われた佐竹氏と何故縁戚関係になったのか?
②相馬御厨に関しては上総広常と同じ立場の千葉常胤の影が薄いのは何故か?
③上総広常が佐竹攻めの中心になって活躍したように記述されているが、新たに所領などを常陸国に褒美としてもらった記録は残っていない。
④相馬御厨は佐竹攻めの前に、上総広常や千葉常胤によって実質支配権を佐竹氏より奪い返すことができたのか?
など、疑問に感じることが多い。
あくまで推測だが、次のようなことが考えられる。
千葉常胤の子や孫たちも上総広常の指揮下で佐竹攻めに加わっていたはずである。
相馬御厨の支配権を佐竹氏から回復するため、上総広常と千葉常胤の利害関係は一致しており協力していた。
佐竹攻めの結果、上総広常と千葉常胤は相馬御厨の支配権を回復することができたので、佐竹氏が失った常陸国の所領は佐竹攻めに参加した他の御家人に褒美として与えられた。(佐竹氏が相馬御厨の支配権を奪う前の状態に戻った)
1183年(壽永2年)に上総広常が謀殺され、その兄弟たちは所領を失い拘束された。その後、上総広常の無実が判明し、兄弟たちの拘束は解かれ所領も回復できたことになっているが、事実はかなり異なっていると考えられる。
上総広常の兄弟である相馬常清は吾妻鏡・千葉大系図では本領安堵となっているが、その子孫が角田氏となってことと千葉常胤の子相馬師常が相馬御厨を支配しその後江戸時代大名として続く相馬氏の祖となったことを考慮すれば、相馬御厨の支配権は千葉氏に移ったはずである。
上総広常が謀殺された後、念願だった相馬御厨を単独で支配することができ一族繁栄の礎を築いた千葉氏によって、佐竹攻めのことは上総広常の活躍だけを吾妻鏡で強調することで、相馬御厨のことについて触れないように吾妻鏡編者に影響力が行使されたのではないか。
父千葉常重から相馬御厨の支配権を受け継いだ千葉常胤にとって、未進官物を理由に時の国守藤原親道によって父千葉常重を召し捕らえられ無理やり国守藤原親道に相馬御厨を譲るという証文を書かされたのが1136年(保延2年)、その後幾多の変遷を経て平家を後ろ盾にする佐竹氏に相馬御厨の支配権を奪われて1180年(治承4年)に至ったのである。人生の大半を相馬御厨の支配権をめぐる争いに費やした千葉常胤の思いは一族に伝わっていたはずである。
11月5日 癸丑
寅の刻、實平・宗遠等、使者を武衛に進す。申して云く、佐竹が構う所の寨、人力の敗るべきに非ず。その内籠もる所の兵は、また一を以て千に当たらずと云うこと莫し。能く賢慮を廻さるべしてえり。これに依って老軍等の意見を召さるるに及ぶ。
廣常申して云く、秀義が叔父佐竹蔵人と云う者有り。知謀人に勝れ、欲心世に越えるなり。賞を行わるべきの旨恩約有らば、定めて秀義滅亡の計を加うるかてえり。これに依ってその儀を許容せしめ給う。然れば則ち廣常を侍中の許に遣わさる。侍中廣常の来臨を喜び、衣を倒しまにこれに相逢う。廣常云く、近日東国の親疎、武衛に帰往し奉らずと云うこと莫し。而るに秀義主独り怨敵たり。太だ拠所無き事なり。骨肉と雖も客何ぞ彼の不義に與せしめんや。早く武衛に参り、秀義を討ち取り、件の遺跡を領掌せしむべしてえり。侍中忽ち和順す。本より案内者たるの間、廣常を相具し、金砂の城の後に廻り、時の声を作す。その声殆ど城郭に響く。これ図らざる所なり。仍って秀義及び郎従等防禦の術を忘れ、周章横行す。廣常いよいよ力を得て、攻戦するの間、逃亡すと。秀義跡を暗ますと。 |
(現代語)
11月5日 癸丑
午前四時頃、土肥實平、土屋宗遠等は、頼朝様に使者をよこして云いました。佐竹冠者秀義が構えている要塞はとても人の力で破れそうもありません。しかも中に篭っている兵隊は一騎当千のものですから、良く考えたほうが良いと云いました。これを聞いて古くからの宿老等の意見を聞くことにしました。
上総廣常がいうには、秀義の叔父に佐竹藏人義季がいます。義季は知恵も策略も人より優れ、権力欲も人一倍です。勳功の賞を約束すればきっと佐竹秀義を滅ぼす策略に加わるでしょう。と云ったので、その提案を採用しました。すぐに上総廣常を藏人義季の所へ行かせました。藏人義季は上総廣常の来訪を喜んで、敬意を表してお会いになりました。上総廣常が云うには、最近は関東の元々源氏と親しい人も親しくなかった人も、頼朝様に服従しない者は無い。それなのに、佐竹秀義は一人で敵方になった。親戚とは云っても、なんでその反対者に味方するのか。早く頼朝様の所へ行って、佐竹秀義を討ち取ってその領地を掌握するのが良いと云いました。藏人義季はすぐになびきました。元々臣従するつもりなので上総廣常を案内して金砂城の後に回って攻撃の雄叫びをしました。その音は城郭の中まで響きました。是は考えていなかった事なので、佐竹冠者秀義とその部下達は、防御するのも忘れあたふたと慌てました。上総廣常はおかげで優勢になって攻撃をすると敵は逃亡しましたという。佐竹秀義も行方をくらましましたという。
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11月6日 甲寅
丑の刻、廣常秀義逃亡の跡に入り、城壁を焼き払う。その後軍兵等を方々の道路に分ち遣わす。秀義主を捜し求むるの処、深山に入り、奥州花園城に赴くの由風聞すと。 |
11月7日 乙卯
廣常以下士卒、御旅館に帰参す。合戦の次第及び秀義逐電・城郭放火等の事を申す。軍兵の中、熊谷の次郎直實・平山武者所季重殊に勲功有り。所々に於いて先登に進む。先登し更に身命を顧みず、多く凶徒の首を獲る。仍ってその賞傍輩に抽んずべきの旨、直に仰せ下さると。また佐竹蔵人参上し、門下に候すべきの由望み申す。即ち許容せしめ給う。功有るが故なり。
今日、志太三郎先生義廣・十郎蔵人行家等、国府に参り謁し申すと。 |
(現代語)
11月7日 乙卯
上総廣常以下の武士達が頼朝様の宿舎に帰って来て、合戦の次第と佐竹秀義の逃げ去ったこと、城郭へ放火した事などを報告した。軍勢の中で熊谷次郎直實と平山武者所季重は特に手柄がありました。どこででも先頭を進み、命を顧みず、多くの敵の首を獲りました。それで、賞も同僚より秀でてるようにとの旨を、頼朝様がその場で直接お言葉がありましたという。又、佐竹藏人義季が参上して部下になりたいと望んで云いました。直ぐに許可されました。それは手柄があったからです。
今日、叔父の志田三郎先生義広と十郎蔵人行家達が国府にやってきて面会したという。
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11月8日 丙辰
秀義が領所常陸の国奥七郡並びに太田・糟田・酒出等の所々を収公せられ、軍士の勲 功の賞に宛て行わると。
また逃亡する所の佐竹の家人十許輩出来するの由、風聞するの間、廣常・義盛をして生虜らしめ、皆庭中に召し出さる。もし害心を挟むべきの族、その中に有るや否や。その顔色を覧て、度らしめ給うの処、紺直垂の上下を着すの男、頻りに面を垂れ落涙するの間、由緒を問わしめ給う。故佐竹の事を思うに依って、頚を継ぐに拠所無きの由を申すと。仰せに曰く、所存有らば、彼の誅伏の刻、何ぞ命を棄てざるかてえり。答え申して云く、彼の時は、家人等その橋の上に参らず、ただ主人一身召し出され、梟首の間、後日の事を存じ逐電す。而るに今参上すること、精兵の本意に非ずと雖も、相構えて拝謁の次いでを伺い、申すべき事有るが故なりと。重ねてその旨を尋ね給う。申して云く、平家追討の計りを閣き、御一族を亡ぼさるるの條、太だ不可なり。国敵に於いては、天下の勇士一揆の力を合わせ奉るべし。而るに誤り無き一門を誅せられば、御身上の讎敵、誰人に仰せて退治せらるべきや。将又子孫の守護は何人たるべきや。この事能く御案を廻さるべし。当時の如きは、諸人ただ怖畏を成し、真実帰往の志有るべからず。定めてまた誹りを後代に貽さるべきものかと。仰せらるの旨無く入らしめ給う。
廣常申して云く、件の男謀反を存ずるの條、その疑い無し。早く誅せらるべきの由と。然るべからざるの旨仰せ宥めらる。剰え家人に列す。岩瀬の與一太郎と号すはこれなりと。今日武衛鎌倉に赴き給う。便路を以て小栗の十郎重成が小栗の御厨八田館に入御すと。
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(現代語)
11月8日 丙辰
「秀義の所領を収公し、軍士の功に宛て行ふ」
秀義の領地の常陸國の奥七郡と太田、糟田、酒出等の領地を没収して、軍士の手柄の褒美として配られたという。
又、逃げていった佐竹の家臣十人ほどが出てきたと噂があったので、上総廣常や和田義盛に言いつけて捕虜にして、皆庭につれてこさせました。その中に敵対心を持っているものがいればと、顔色をぶっしょくしていた処、紺の直垂を着た男が顔をうなだれて盛んに涙を零しているので、理由を聞かれました。亡くなった佐竹義政が殺された事を考えると、生きていても仕方が無いと云いました。頼朝様のお言葉には、「思うところがあるのならば、何故あの殺される場で戦って死ななかったのか。」答えて云いました。「あの時家来達は、橋の上にいけませんでした。主人一人が橋の上に呼ばれ殺された時、後日の事を考えて逃げました。併しながら、今ここへ来ることは、侍としては不本意ですが、心して頼朝様に面会できるついでに申し上げたい事がありました。」との事でした。猶、続いてその旨を聞きました。彼が言うには、「平家追討の戦略を放り出して、同族を滅ぼすなんてとんでもないことです。国の敵に向かう時は天下の勇士は力を合わせて向かうべきです。それなのに罪無き同族を殺すなんて、貴方の本当の敵は、誰に言いつけて攻めつぶすつもりですか。頼朝様や子供達を誰が守るのですか。この事を良くお考えになるべきです。現在は貴方の権威に皆恐れているだけで本当に服従している訳ではありません。このままでは、子孫に問題を残すだけです。」という。何のお言葉も無く奥の間へ入られました。
上総廣常が云いました。「あの男は謀叛を考えている事は疑いありません。早く死刑にすべきです。」という。「そうすべきではない。」とのお言葉があり、これを許しておまけに御家人に入れました。岩瀬与一太郎と言うのがこの男ですという。今日、頼朝様は鎌倉へ帰りました。その途中に小栗十郎重成の八田の屋敷にお入りになられたという。 |
12月12日 庚寅 天晴、風静まる
亥の刻、前の武衛新造の御亭に御移徙の儀有り。景義の奉行として、去る十月事始め有り。大倉郷に営作せしむなり。時剋に、上総権の介廣常が宅より、新亭に入御す。
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(現代語)
12月12日 庚寅
午後十時頃に頼朝様が新しく建てたお屋敷に引越しの儀式がありました。大庭平太景義が担当となって去る十月に工事始があって大倉郷に建設しました。その時刻になって、上総權介廣常の屋敷を出発されて新しい御殿に入られました。
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源頼朝が鎌倉の新居が完成したので、上総広常の屋敷から引っ越したことが書かれている。源頼朝の父源義朝が関東の拠点を鎌倉に置いていたので、源義朝配下だった上総広常が鎌倉に屋敷を保有したのは不思議ではない。しかし、平治の乱から20年の月日を経ても屋敷を維持してきたのは、上総広常がいずれ源氏再興のことを信じてきた証拠である。
1181年 (治承5年、7月14日改元 養和元年 辛丑) |
2月1日 戊寅
足利の三郎義兼北條殿の息女を嫁す。また加々美の次郎長清上総権の介廣常の聟と為る。両人共穏便を存じ忠貞を挿む。御気色快然の余り、別の仰せに依って今この儀に及ぶと。
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足利義兼に北条時政の娘が、甲斐源氏の加賀美長清に上総広常の娘が嫁いだことが記載されている。
足利氏は代々執権北条氏と縁戚関係を保ち、執権赤橋守時の娘が嫁いだ足利高氏は室町幕府を開いた足利尊氏となる。
加賀美長清は後の小笠原長清である。小笠原氏は室町時代は信濃国守護大名、江戸時代は豊前国小倉藩主として続く名門である。当時19歳と推測されるので上総広常の娘も同年齢だったと思われる。
治承3年(1179年)に上総に流刑となった平時忠の次男平時家にも上総広常は娘を嫁がせており、2人の娘は上総広常が40代になって生まれたと考えられる。
上総広常の嫡子良常も同様だったと考えれば、後に自害したのは25歳前後だったのかもしれない。千葉常胤の嫡子千葉胤政が40歳、孫の成胤が良常と同年代だったと考えられ、千葉常胤は子供や孫などが多くしかも成人男性が多かった。上総広常が滅亡した原因は、若いうちに子供ができなかったことがあげられる。
6月19日 甲子
武衛納涼逍遙の為三浦に渡御す。彼の司馬一族等、兼日結構の儀有り。殊に案内を申すと。陸奥の冠者以下御共に候す。
上総権の介廣常は、兼日の仰せに依って佐賀岡浜に参会す。郎従五十余人悉く下馬し、各々砂上に平伏す。廣常轡を安めて敬屈す。時に三浦の十郎義連、御駕の前に候ぜしめ、下馬すべきの由を示す。廣常云く、公私共三代の間、未だその礼を成さずてえり。爾る後故義明旧跡に到らしめ給う。
義澄盃酒・椀飯を構え、殊に美を尽くす。酒宴の際、上下沈酔しその興を催すの処、岡崎の四郎義實武衛の御水干を所望す。則ちこれを賜う。仰せに依って座に候しながらこれを着用す。
廣常頗るこれを嫉み、申して云く、この美服は、廣常が如き拝領すべきものなり。義實の様な老者を賞せらるの條存外と。義實嗔りて云く、廣常功有るの由を思うと雖も、義實が最初の忠に比べ難し。更に対揚の存念有るべからずと。その間互いに過言に及び、忽ち闘諍を企てんと欲す。武衛敢えて御詞を発せられず。左右無く両方を宥められ難きの故か。爰に義連奔り来たりて、義實を叱って云く、入御に依って義澄経営を励む。この時爭か濫吹を好むべきや。若しくは老狂の致す所か。
廣常が躰また物儀に叶わず。所存有らば後日を期すべし。今御前の遊宴を妨げること太だ拠所無きの由、再往制止を加う。仍って各々言を罷め無為なり。義連御意に相叶うこと併しながらこの事に由ると |
(現代語)
6月19日 甲子
頼朝は、納涼散歩のため三浦に出かけます。三浦一族が準備をした催しでした。
このとき、上総広常も佐賀岡浜で頼朝を出迎えています。50人余りの部下は、皆下馬し砂浜に平伏しますが、上総広常は、轡を緩めて敬礼したのみで馬から下りませんでした。
三浦義連は、広常の前に出て、下馬の礼をとるよう促しますが、広常は「公私共三代の間、未だその礼を成さず」と言ったといいます。
その後、衣笠合戦で命を落とした三浦義明の旧跡に場所が移ります。三浦義澄によって酒宴の席が用意されていました。
酒宴が進んでいくと、岡崎義実が頼朝の水干を所望しました。水干はすぐに義実に下賜されます。
しかし、上総広常はこれを妬み「このような美しい服は、広常のような者が拝領すべきであって、義実のような老いぼれに下賜されるのは予想外である」
と息巻いたため、双方が言い合いとなり、あわや殴り合いの喧嘩となるところだったといいます。
これを鎮めたのは、三浦義連だったそうです。
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水干とは男子の平安装束の一つ。簡素な服飾であることからの命名のようである。岡崎義実も上総広常もともに60代、水干などのことで争うだろうか。
但し酒宴の席でのことであり、お互いに源頼朝挙兵での働きは自分が一番という自負心は持っているのである。
些細なことから口論になり、お互いに相手を罵倒するような言葉をはいたので、三浦義連が仲裁に入りうまく収めたということが真相だろう。
佐賀岡浜の馬の件や水干のことは、吾妻鏡編者により書き加えられたものである。
上総広常は頼朝が挙兵した1180年から謀殺された1183年まで3年3か月頼朝に仕えたのである。
上総広常が酒宴の席とは言え、同じ御家人と喧嘩になったのはこの日のことだけである。
吾妻鏡は上総広常の謀殺された1183年のことが1年分欠落しており上総広常謀殺の理由が不明なため、歴史学者が吾妻鏡に書かれている1181年6月19日の出来事に注目し、上総広常の不遜な態度が謀殺された原因となったということにした。
次の章で上総広常が謀殺された本当の理由を考察することにしたい。
1182年 (養和2年 5月27日改元 壽永元年 辛丑) |
1月23日 甲午
伯耆の守時家初めて武衛に参る。これ時忠卿息なり。継母の結構に依って、上総の国に配せらる。司馬これを賞翫せしめ聟君と為す。而るに廣常去年以来御気色聊か不快の間、その事を贖わんが為これを挙し申す。武衛京洛の容を愛するの間、殊に憐愍すと。
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「平家にあらずんば人にあらず」で有名な平時忠の次男、平時家が初めて源頼朝と面会した。平時家は右近衛権少将兼伯耆守と出世したが、継母の讒言により上総国へ流された。そして上総広常に気に入られ娘婿になった。
吾妻鏡では昨年から上総広常が源頼朝の機嫌を損ねることが多かったので、京都育ちの源頼朝のご機嫌伺いのため娘婿の平時家を同行して面談させたと書かれている。
上総広常が源頼朝の機嫌を損ねたとされる多くのことは、吾妻鏡による誇張である。
平時家という人物は、京文化に通じた一流の文化人であり、京都の朝廷・公家・平家の人々についての詳しい情報を得られる貴重な人物なのである。
源頼朝は終生平時家を優遇し、鎌倉幕府の政治・文化・芸術に貢献させた。
4月5日 乙巳
武衛腰越に出しめ江島に赴き給う。足利の冠者・北條殿・新田の冠者・畠山の次郎・下河邊庄司・同四郎・結城の七郎・上総権の介・足立右馬の允・土肥の次郎・宇佐美の平次・佐々木の太郎・同三郎・和田の小太郎・三浦の十郎・佐野の太郎等御共に候す。これ高尾の文學上人、武衛の御願を祈らんが為、大弁才天をこの島に勧請し奉る。供養法を始行するの間、故に以て監臨せしめ給う。密かにこの事を議す。鎮守府将軍藤原秀衡を調伏せんが為なりと。今日即ち鳥居を立てらる。その後還らしめ給う。金洗沢の辺に於いて牛追物有り。下河邊庄司・和田の小太郎・小山田の三郎・愛甲の三郎等、箭員有るに依って、各々色皮・紺絹等を賜う。 |
(現代語)
4月5日 乙巳
頼朝様は、腰越辺りから江ノ島へお出かけです。足利冠者義兼・北條時政・新田冠者義重・畠山次郎重忠・下河邊庄司行平・同四郎政義・結城七郎朝光・上総權介廣常・足立右馬允遠元・土肥次郎實平・宇佐美平次實政・佐々木太郎定綱・同三郎盛綱・和田小太郎義盛・三浦十郎義連・佐野太郎基綱等がお供をした。これは、高雄の文覚上人が、頼朝様の願いを祈るために、弁財天をこの江ノ島へ勧請(かんじょう、分霊を迎えること)し、初めて供養を始めるので、特に出席されました。秘密の行法でした。これは奥州平泉の藤原秀衡を祈り殺すためだという。今日、鳥居を立てられました。その後、帰る途中の金洗い沢(七里ガ浜)で牛追物(鏑矢などで子牛を射る遊び)が行われた。下河邊庄司行平・和田小太郎義盛・小山田三郎重成・愛甲三郎季隆などが当てた矢の数が多かったので、それぞれに色染めの皮や藍染の絹を褒美に与えました。 |
8月11日 己酉
晩に及び、御台所御産気有り。武衛渡御す。諸人群集す。またこの御事に依って、在 国の御家人等近日多く以て参上す。御祈祷の為、奉幣の御使いを伊豆・筥根両所権現
並びに近国の宮社に立てらる。所謂、
伊豆山 土肥の彌太郎 筥根 佐野の太郎
相模一宮 梶原の平次 三浦十二天 佐原の十郎
武蔵六所宮 葛西の三郎 常陸鹿嶋 小栗の十郎
上総一宮 小権の介良常 下総香取社 千葉の小太郎
安房東條寺 三浦の平六 同国洲崎社 安西の三郎 |
上記神社の詳細は次の通り
①伊豆山(伊豆山神社ー静岡県熱海市伊豆山) ②筥根(箱根神社ー神奈川県足柄下郡箱根町元箱根)
③相模一宮(寒川神社ー神奈川県高座郡寒川町宮山) ④三浦十二天(十二所神社ー神奈川県横須賀市芦名)
⑤武蔵六所宮(大國魂神社ー東京都府中市宮町) ⑥常陸鹿嶋(鹿島神宮ー茨城県鹿嶋市宮中)
⑦上総一宮(玉前神社ー千葉県長生郡一宮町一宮) ⑧下総香取社(香取神宮ー千葉県香取市香取)
⑨安房東條寺(不明) ⑩安房洲崎社(洲崎神社ー千葉県館山市洲崎)
小権の介良常は上総広常の嫡子。延慶本平家物語に北条時政の語ったこととして、「上総介広常は平氏の怒りにふれ、子息の山城権守能常は京都に召籠められていましたが、このほど国許へ逃げ下り用心しているところです。」という記述がある。
千葉大系図では、小権介良常自害という記述があり、上総広常が謀殺された時に国許で自害したと思われる。
父上総広常に対し小権介良常の記述は極めて少なく、吾妻鏡では」。
8月12日 庚戌 霽
酉の刻、御台所男子御平産なり。御験者は専光房阿闍梨良暹・大法師観修、鳴弦役は師岡兵衛の尉重経・大庭の平太景義・多々良権の守貞義なり。上総権の介廣常は引目役。戌の刻、河越の太郎重頼が妻(比企の尼女)召しに依って参入し、御乳付に候す。
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(現代語)
8月12日 庚戌 晴れ
午後六時頃に、御台所(政子)は男の子(頼家)を出産なされました。無事な出産と子供が偉くなるように祈祷をしたのは、専光房阿闍梨良暹と大法師観修です。悪魔祓いの弓の弦を鳴らす役目(鳴弦役)は、師岳兵衛尉重經と大庭平太景義と多々良權守貞義です。上総權介廣常は枕元で鏑の矢を振って鳴らして悪魔祓いをする役(引目役)でした。午後八時頃になり、比企尼の娘で河越太郎重頼の妻呼ばれてきて、乳母になる初めて乳を吸わせる儀式(御乳付)をしました。 |
8月16日 甲寅
若君五夜の儀、上総の介廣常が沙汰なり。 |
(現代語)
8月16日 甲寅
若公(万寿、後の頼家)の生まれて五日目を祝う儀式(五夜の儀)を上総權介廣常が取り仕切りました。 |
8月14日三夜の儀は小山朝政、8月18日七夜の儀は千葉常胤が取り仕切りました。上総広常にとって五夜の儀を取り仕切ることができたのは、源義朝・源頼朝配下で歩んできた人生の中で至福の喜びであった。吾妻鏡に書かれている上総広常に関することはこれが最後になる。翌年1183年(壽永二年)のことは丸一年分欠落しており、梶原景時による上総広常暗殺の記述は愚管抄によるものである。
5月11日、木曽義仲の軍が加賀・越中の国境にある俱利伽羅峠峠の戦いで平家の追討軍に大勝した。7月には木曽義仲の軍は上洛を果たし、平家方は西国へ落ち延びた。このような重要な出来事があった年だが、吾妻鏡では欠落しているのである。
11月になると平家方が盛り返し、木曽義仲と後白河法皇が対立し法住寺合戦がおきるなど、京都の情勢は緊迫化した。
源頼朝は弟の源義経を不破関まで進出させたが小規模な軍で、翌年になって源範頼が大軍を率いて鎌倉を出発するまで待たねばならなかった。
源義経・範頼の率いる鎌倉軍が木曽義仲の軍を破って近江国粟津で木曽義仲を敗死させたのは、1184年(壽永三年)1月20日であった。
このような緊迫した政治情勢だった1183年(壽永二年)12月22日に梶原景時による上総広常暗殺事件がおきたのであった。
上総広常が暗殺されるとすぐに源範頼が大軍を率いて京都に出発していることを勘案すると、上総広常が鎌倉軍を京都に派遣することを反対した中心人物だった為、源頼朝が暗殺を命じたと考えられている。
このことは次の項で検証したい。
吾妻鏡を編集した北条氏にとって1年分を欠落させてまで、後の世に伝えたくない出来事があったのではないだろうか。あくまで私見であるが自分の考えを掲げてみた。
①源頼朝の人物像は武士の棟梁として毅然とした態度をとる偉大な政治家との印象が強いが、北条氏によって作り上げられたものである。
②上総広常が鎌倉軍を京都に派遣することに反対したのは、京都の朝廷から独立した政治権力(国家のようなもの)を東国を地盤として作ることを目指していたからである。鎌倉軍を京都に派遣することで京都の朝廷に取り込まれ、御家人たちが官位などで朝廷の飼い犬のような存在になってしまうことを危惧したからである。上総広常の考えは有力御家人たちの考えを代弁したのである。
③木曽義仲が後白河法皇と対立し法住寺合戦に及ぶと、源頼朝は木曽義仲を非難し自ら軍を率いて上洛することを主張したと考えられる。上洛に反対する上総広常は頼朝にとって邪魔な存在なので謀殺された。
④源頼朝が上洛しそのまま京都の朝廷に取り込まれることを警戒した北条政子や有力御家人は、頼朝の弟範頼を総大将として鎌倉軍を京都に派遣した。
⑤法住寺合戦は武士が法皇の率いる軍を破った初めての出来事で、後に北条政子が派遣した鎌倉軍が後鳥羽上皇率いる軍を破った承久の乱と同じ構図である。源頼朝は朝廷中心の考えで、法住寺合戦に対する源頼朝の言動は北条氏にとって都合の悪いものであった。
⑥歴史学者佐藤進一提唱のの東国国家論によって、「鎌倉幕府を京都の朝廷から独立した別個の中性国家とする考え方」は、当時の御家人が京都の朝廷に支配されない政治権力を鎌倉に作ることを目指したことと通じるのである。上総広常が謀殺された後、北条政子や北条義時にこの考えは継承され、京都の朝廷から独立した政治権力として鎌倉幕府は機能していくのであった。
1月1日 辛卯 霽
鶴岡八幡宮御神楽有り。前の武衛御参宮無し。去る冬の廣常の事に依って、営中穢気の故なり。籐判官代邦通奉幣の御使いとして、廻廊に着す。別当法眼参会す。法華八講を行わると。
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(現代語)
1月1日 辛卯 霽
鶴岡八幡宮でお神楽がありました。頼朝様の参拝はありませんでした。去年の冬、(梶原景時による)上総廣常暗殺事件の血で御所中が穢(けが)れているからです。大和判官代藤原邦道がお参りの代理人として、八幡宮の回廊に座りました。八幡宮僧侶筆頭の法眼圓曉がやってきて、法華經を八回唱えられたという。 |
1月8日 戊戌
上総の国一宮の神主等申して云く、故介の廣常存日の時、宿願有り。甲一領を当宮の宝殿に納め奉ると。
武衛仰せ下されて曰く、定めて子細の事有るか。御使いを下され、これを召覧すと。仍って今日籐判官代並びに一品房等を遣わさる。御甲二領を進す。
彼の奉納の甲はすでに神宝たり。左右無く出し給い難きが故、両物を以て一領に取り替えるの條、神慮その祟り有るべからざるかの旨仰せらると。 |
(現代語)
1月8日 戊戌
上総國一宮(玉前神社)の神主達が言いました。故上総權介廣常が生前、願い事があると鎧一領を玉前神社の神殿へ奉納しましたとの事です。
そこで、前右兵衛佐頼朝様の、お言葉がありました。さぞかし事情があるのだろう。使者をやって、その鎧を取り寄せて見よう。そこで今日、大和判官代藤原邦道と一品坊昌寛を行かせて、鎧二領を寄進された。その廣常が奉納された鎧は神様のものなっているので、安易に貰い下げるわけには行かないので、二領を奉納すれば、神様も祟りは無いであろうと、お言葉がありましたという。 |
1月17日 丁未
籐判官代邦通・一品房並びに神主兼重等、廣常が甲を相具し、上総の国一宮より鎌倉に帰参す。即ち御前に召し彼の甲(小桜皮威)を覧玉う。一封の状を高紐に結い付く。
武衛自らこれを披かしめ給う。その趣、武衛の御運を祈り奉る所の願書なり。謀曲を存ぜざるの條、すでに以て露顕するの間、誅罰を加えらるる事、御後悔に及ぶと雖も、今に於いては益無し。須く没後の追福を廻らさる。兼ねて又廣常弟天羽庄司直胤・相馬の九郎常清等は、縁坐に依って囚人たるなり。亡者の忠に優じ、厚免せらるべきの由、定め仰せらると。願書に云く、
敬曰
上総の国一宮宝前
立て申す所願の事
一、三箇年の中、神田二十町を寄進すべき事
一、三箇年の中、式の如く造営を致すべき事
一、三箇年の中、万度の流鏑馬を射るべき事
右志は、前の兵衛の佐殿下心中祈願成就・東国泰平の為なり。此の如き願望、一々円満せしめば、いよいよ神の威光を崇め奉るべきものなり。仍って 立願右の如し。
治承六年七月日 上総権の介平朝臣廣常
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(現代語)
1月17日 丁未
大和判官代藤原邦道・一品坊昌寛それに神主兼重等は上総權介廣常が納めた鎧を携えて、上総一宮から鎌倉へ帰ってきました。すぐに頼朝様は御前へ呼んで、例の鎧「小桜皮おどし」をご覧になった。一通の封書が肩の紐に結び付けてありました。頼朝様は、直接この手紙を取って、お開きになりました。その内容は、頼朝様のご運をお祈りする願い事が書かれていました。謀反の心が無いことは、明らかなことが分かりましたので、罰として暗殺してしまったことが悔やまれましたが、今となっては仕方がないことなので、冥福を祈るばかりである。又、上総權介廣常の弟である天羽庄司直胤と相馬九郎常淸等は、連座により捕らえられていましたが、死んだ廣常の忠義の心に応じて、許されることになりました。願書に書かれていたことは、
上総一宮の宝前にうやまって申し上げます。
次の願いを立てます
一、 三年の間に、神様へ専用に年貢を奉納する田二十町を寄付すること。
一 、三年の間に、先例に沿って神殿を造営すること。
一 、三年の間に、一万回の流鏑馬を実行すること。
以上の行事をするのは、前右兵衛佐頼朝様の心中の御祈願の成就と、関東を平和を祈ってのものです。この願いが全て満たされた時は、益々神様のご 威光を信じ、大事にいたします。そこで、このように願いを立てます。
治承六年七月日 上総權介平朝臣廣常
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上総一宮玉前神社に上総広常が奉納した鎧に結びつけられた封書に書かれた願書によって、上総広常の無実が証明され拘束されてた兄弟たちも許された。ここには書かれていないが、上総広常の嫡子良常は自害し金田頼次は病没していた。金田頼次は千葉常胤に預けられており、無実の兄上総広常を殺されたことへの抗議のために自害し、死ぬ前に千葉常胤に嫡子康常のことを託した可能性が高い。無念で死んでいった金田頼次の死に千葉常胤も感じることがあったのかもしれない。上総金田氏(蕪木氏を含む)は以後千葉氏とともに歩むのであった。
2月14日 癸酉 晴
今日、上総の国の御家人等、多く以て私領本宅元の如く領掌せしむべきの旨、武衛の御下文を給う。彼の輩去年廣常が同科たるに依って、所帯を収公せらるる所なり。
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(現代語)
2月14日 癸酉 晴
今日、上総国の御家人たちの多くが、自分の領地と門田を含む屋敷地とを、以前のとおり知行するように、頼朝様の許可証を与えました。この人たちは、去年の上総權介廣常事件に縁者として同罪とみなされ、領地などを没収された人々です。 |
上総広常が謀殺された後、上総広常の一族が没収されたと領地などを以前のとおりに戻す許可がでたと書かれているが事実は違っていた。
相馬信清は相馬御厨にあった所領は千葉氏のものとなり、別の所領を与えられたので後に角田氏と称するようになる。
天羽直胤は所領安堵となっているが、天羽荘富津が和田義盛の所領となったことからも全てが戻ったわけでない。
金田頼次は病死ということで、嫡子金田康常が勝見城及びその周辺の所領を安堵された。父の遺領(現在の木更津市に存在した金田保)でなく新しい所領(現在の長生郡睦沢町・長生村周辺)に変わったのである。
上総広常の遺領一宮荘は、千葉常胤の孫境常秀に与えられ柳沢城(高藤山城)を廃して新たに大柳館を築いて居城とした。
同じく佐是郡の二村は小笠原長清に嫁いだ上総広常の娘に与えられた。
畔蒜荘(現在の市原市)・飯富荘(現在の袖ケ浦市)・伊北荘(現在の大多喜町)は和田義盛の所領となったのである。
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上総広常の居城には諸説あるが、有力な候補として高藤山城があげられる。上総広常の祖父平常晴と千葉常胤の祖父平常兼は兄弟であったが、2人の兄にあたる上総権介平常家が居城として上総一宮柳沢城としていたと千葉大系図に書かれている。柳沢城が高藤山城のことで上総広常の代まで居城であったと考えられている。幕末の一宮藩主加納久微によって上総広常の功績を称えた「高藤山古蹟之碑」が建てられている。
上総一宮玉前神社にある平廣常顕彰碑とともに上総広常の記念碑として唯一のものである。
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3月13日 壬寅
尾張の国住人原大夫高春召しに依って参上す。これ故上総の介廣常が外甥なり。また薩摩の守平忠度の外舅たり。平氏の恩顧を為すと雖も、廣常が好に就いて、平相国に背き、去る治承四年関東に馳参する以来、偏に忠を存ずるの処、去年廣常誅戮の後、恐怖を成し辺土に半面す。而るに今廣常罪無くして死を賜う。潛かに御後悔有るの間、彼の親戚等多く以て免許す。就中高春その功有るに依って、本知行所領元の如くこれを領掌せしめ、奉公を抽ずべきの旨仰せ含めらると。
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(現代語)
3月13日 壬寅
尾張國に所領を持つ武士の原大夫高春が、お呼びに従って参りました。この人はなくなった上総權介廣常の甥です。又、薩摩守平忠度は高春の甥であります。平家の縁が近い人であるけれども、廣常の方の縁を慕って、平相國淸盛に背を向け、去る治承四年に関東へ飛んできて以来、ひたすら忠義を尽くしてきました。去年廣常が処刑されたとき、その縁で同罪扱いされることを恐怖して、田舎にひっそりと伏せるようにしていました。しかし今となれば、上総廣常は罪がないのに処刑してしまった事を、密かに後悔し、その親戚の人たちの多くは許されました。中でも、高春は元々手柄のある人なので、本来の所領を元のとおりに知行して、頼朝様に尽くすように、お言葉があったという。
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原高春は尾張国二宮大縣神社大宮司。母が上総広常の妹なので上総広常の軍に加わった。源頼朝の母は尾張国熱田神宮大宮司・藤原季範の娘。
源義朝の正室は頼朝の母と言われ、実家の家柄の良さが源頼朝を嫡子として扱われた理由とされている。
「上総御曹司」と呼ばれた源義朝によって上総広常の父・平常澄を配下にしていたことは既に述べた。
平常澄の娘(上総広常の妹)を尾張国二宮大縣神社大宮司・原高成に嫁がせたのは、源義朝の意向だったと考えられ大変興味深い。
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